しぶさわ忍法帖

しぶさわレーニン丸のネタ帳です。

シャルル・フーリエ『産業的協同社会的新世界』読書メモ(4)

 

shibuleni.hatenablog.com

 

前回、学者とか芸術家がちゃんとした評価をされる「正立した世界」について触れたので、今回は協同社会に関する研究が全然されてこなかった理由について説明していきたいと思います。

ちなみに、フーリエによれば、彼の世界(「正立した世界」)では、学者や芸術家が欲しいもの(名声とか富とか)が、「転倒した世界」の20倍、いや100倍ものの莫大な富が一気に手に入れることができる、と述べていました。相変わらず数字が馬鹿でかい。

 

さて本題。なぜ、協同社会に関する研究がなされてこなかったのか。それは、これまで協同社会に関する研究が、ひとつの偏見に晒されてきたからだ、ということを言います。たとえばフーリエは、偏見の例として、

 

三ないし四世帯を家庭的共同体に結合すれば、一週間後にはきっと、とりわけ女房どもの間で反目が現われる。それが三十ないし四十にいたっては、さらには三百や四百にいたってはなおさらである。(P.442)

 

という話を挙げます。つまり、何人かの家庭を共同体にぶち込めば、女房がキレるだろう、しかもそれが30〜40家庭、300〜400家庭ともなればなおさらキレるだろう、ということですね。しかしフーリエは負けません。こんなものはとんでもない理屈だ、と。フーリエはどういう風に考えるか。

 

もし神が節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を望んでいるのであれば、神は出来る限り多数の世帯からなる協同世界についてしか考察しえなかったであろうから。(P.442)

 

……つまり、神が節約とか統制というものを望んでいるのであれば、できるだけ大多数の人が一同に暮らすような協同社会(つまり家)についてしか考えなかっただろう、ということが言いたいのだと思います。一人暮らしよりも実家暮らしの方が経済的だし、家族と一緒に住んでいれば、ご飯を作るにしても一気に買い物や料理ができてシステマチックである、ということでしょう。そういう社会しか神は想像できなかったのだろう、ということは推測できますが、これがどう反論になっているのかは正直ここだけだと分かりづらい。ともかくフーリエの説を続けていきますと、

 

だから、三世帯、ないし三十世帯においては小規模だったのでうまくいかなかったということは、非常に多くの世帯(三百とか四百)においては成功する兆しであったのだ。それには、神に望まれており、また協同社会機構への神の顕現である「引力」(アトラクシオン)の要求にかなっている自然的協同社会の理論もしくは方法を、前もって発見すればよかったのだ。神は引力によって物質界を司っている。もし神が、社会の統轄のために別の手段を用いているとすれば、神の体系のなかには、行動の統一性(ユニテ)ではなくて、二元性(デュブリシテ)が存在していることになるであろう。(P.442-3)

 

オッケー、少しずつ読んでいきましょう。もうすでに頭が混乱してきましたが、負けません。3〜4、30〜40世帯という少ない世帯ではうまくいかったということは、300〜400では成功する兆しなのだ、というところ。300〜400という数ですが、イメージ的には、自分が住んでる地域(町とか村)の一区画もろもろの家庭が集合する、というようなものでしょうか。ともあれ、なぜ成功する兆しなのか。普通に考えれば、どうしても隣近所の家庭と家族ぐるみの付き合いができる、というだけでも今の時代であれば凄いことのように感じますね。まあ30〜40だとごく少数の地域(具体的には言いませんが……)では可能かもしれません。ともあれ、現代では実践できる/できている地域というのはごく稀なケースなのは間違いないでしょう。

寄り道が長くなりましたが、成功する兆しになる理由について。それは神の要求に従った自然的協同社会の理論または方法を、前もって見つければよかったのだ! という理由になっていない理由をフーリエは挙げます。何が理由になっていないって、神による云々ではなく、「前もって発見する」というところにあります。「偏見にさらされてるから、偏見を覆せる理由を前もって見つけておけば、偏見は直せる」というのは、少なくとも偏見がまかり通っているような状況では、ただちに偏見が修正できるとは限らないでしょう。それがましてやフーリエのように直情的に、病的なまでに数字に拘りながら理由を挙げようとするとなると、その偏見を後押ししかねない部分もあることでしょう。

ともあれ、フーリエによれば神は引力というパワーによって物質界を支配し、統一的な社会を実現しようとしていると言います。さきほど挙げた「節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を〜」の件は、ここになってようやく真意が見えてきた気がします。あくまで推測ですが。

つまり、

①神が節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を望んでいるのであれば、大多数の世帯からなる協同社会を考察していただろう(フーリエの希望通りの社会)

②しかし現在そうではないため、むしろ豪遊やバラバラな個人主義を後押しするような社会であることが推奨されている(現状の社会)

③資本主義というものは、いかに金を使わせ、いかに個人単位まで金を落とさせるかということしか考えていないじゃないか(筆者の推測)

という批判がフーリエにはあったのではないか。こうしてみると結構的を射た考えなのかもしれません。

 神の真意は資本主義ではない。これこそがフーリエが強調したい部分かもしれません。ではなぜ資本主義が勃興してきたのかについては、フーリエは触れてくれません。しかし、少なくとも資本主義の悲惨な現実をフーリエは目の当たりにしてきました。商人の息子として、親に社会の汚い部分を見せつけられて、嫌気が差したのは間違いないでしょう。この、資本主義社会の闇については次回触れることにして、今は神が引力による統制を目指していたという点に戻りましょう。

これも仮定の話ですが、神がもしも引力ではない別の手段によって社会を統制しているとすると、そこには二元性が存在することになるとフーリエは説きます。

引力は重要です。フーリエにとって引力は、なにも自然科学的な意味での引力だけではなく、物質間にも作用する力だからです(フーリエフェティシズムの祖とした論文も確かあったはずです、次回までに調べます)。今の社会でも、「魅力的な人物」とか、「人を惹きつける力」といった言い回しがありますね。その根本はフーリエにあったのかもしれません。引力は人と人、人と労働、など、全てを包括する巨大なシステムです。これ以外に神が社会統制で用いる手段は存在しないだろう、とまでフーリエは考えていたといっても過言ではないかもしれません。

 

ヒューマン・アクション―人間行為の経済学

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 フーリエとはまったく関係ありませんが、読みたい本の一つをはっつけておきます。社会主義経済の矛盾について書いた本(以前教授に教えて貰った本)らしいのですが高すぎて手が出ません。お兄さんお姉さん助けて!

 

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス: 生涯とその思想

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