しぶさわ忍法帖

しぶさわレーニン丸のネタ帳です。

<平等村>試論——S.グリマーのイデオロギーについて

0. 前書き

ここでは、My Little Pony(以下、MLP)のシーズン5(以下、S5)のエピソード1および2(それぞれ以下E1、E2)における、平等村*1を支配していたスターライトグリマー(以下、グリマー)のイデオロギーについて説明する。平等村におけるグリマーの立ち振る舞いから、多くの視聴者は社会主義を想起*2したり、偽善的な独裁者といったイメージを持ったり*3していたが、果たしてグリマーの思想の中核とは何だったのかについて明らかにしたものは、少なくとも筆者が確認した限り、確認されなかった。そのため、この記事では、平等村におけるグリマーの行動および平等村の住民のグリマーへの反応から、グリマーの思想および平等村のイデオロギー的構造について明らかにする。

1. 平等村におけるグリマーの振る舞いについて

 まずは、平等村におけるグリマーの振る舞いについて見ていこう。そもそも、S5E1-2におけるグリマーの発言の要旨は、以下の2つに大別される。

  1.  個性(=キューティーマーク)を捨てることで、皆が平等になる
  2. 個性を持つことは、差別の原因となるため、危険である(=平等になれない)

しかし、グリマーの行動レベルで見てみると、フラッターシャイによって、実は彼女自身がキューティーマークを有しており、それを隠蔽することによって平等であると見せかけていただけだと明かされた。そして物語の結末として、グリマーは平等村の住民の前でその事実を暴露された結果、反乱が起き、村から放逐されたのだった。グリマーの説く平等とは、あくまで他者を抑圧するために説かれるものであり、自らを特権的な立場に留めておくための手段に過ぎなかったことが住民たちが理解したからだ。

 このことから普通私たちは、真の平等とはお互いの個性(=キューティーマーク)を尊重しあえることなのだ、というメッセージを、S5E1-2から読み取る。共産主義的な思想を持つとされたグリマー*4が敗北し、自由主義的な思想を持つメーン6たちが勝利する。実に自由主義を標榜するアメリカ的な結末だ、と考える視聴者もいるかもしれない。だが、彼女は実はまったく共産主義的な思想を持ってはいない。そもそも平等=共産主義とはもはやかなり古い発想であるからだ*5

 したがって、立てられるべき問いは次のようなものになる。なぜグリマーは平等思想を維持できていたのか、だ。分析に当たって見られるべき次元は二つである。一つは内政の次元、二つにイデオロギーの次元。結論を先取りして言えば、スターライトグリマーの思想とはスターリン主義であることを明らかにしていく。

2. 内政の次元

 まず重要なのは内政という観点である。この観点において、グリマーはほとんどスターリン的手腕を発揮している。たとえばグリマーの、S5E1においてトワイライトたちを出迎えたあとの独白シーンに注目してみよう。

まあ、このことは間違いなく私たちの小さなコミュニティの景気付けになることでしょう。エクエストリアの残りのポニーたちが、私たちの村に加入するためにプリンセスが彼女のキューティーマークを諦めたと知ったら、彼らはついに私たちが達成しようとしていることを理解してくれるでしょうね。(http://mlp.wikia.com/wiki/Transcripts/The_Cutie_Map_-_Part_1より。邦訳は筆者。)

 

ここで彼女は大いなる政治的野心を覗かせていることから、彼女の立場はスターリンの採った一国社会主義の立場をも思わせる。経済基盤については深くは掘り下げないが、少なくとも彼女にとってエクエストリアとは、追いつき、追い越すべき対象なのであって、そしてそこは彼女の思想を広めるためのうってつけの場所なのだ。たとえエクエストリアにおいて平等が実現されていようといまいと、グリマーにとっては問題にならない。なぜなら彼女の考える平等とはまったく仮象のものだからだ。ここで、『ロシア革命』におけるE. H. カーのスターリンに対する分析を引用してみよう。

彼〔=スターリン〕は、彼の意志を妨害する人々に対して残酷で、恨み深く、あるいは憤激や反感をかきたてたりした。彼のマルクス主義社会主義への傾倒は、ほんの表面的なものに過ぎなかった。社会主義は、客観的経済状況から、そして資本主義の抑圧的支配に対する階級意識をもった労働者の反乱から生じたものではなかった。それは、上から、恣意的に力によって課せられるべきものなのであった。スターリンの大衆への態度は、侮蔑的であった。彼は自由と平等に無関心であった。彼は、ソ連以外のいかなる国での革命の展望にも冷笑的であった。(『ロシア革命』、2000年、岩波現代文庫、P.243)

したがって、彼女が内政に注力するのはまったくもってスターリンのそれと同等の理由である。住民同士に監視させ密告させあったり、密告された住民を反乱分子として監禁部屋に閉じ込め、村のスローガンを何度も浴びせるように聞かせたりするのも、過剰に異論や反発を恐れるグリマーの疑心暗鬼の所業である。もちろんスターリンほど残酷ではないが、いわゆる少女向けのアニメで取られる手段としてはかなり異様なものであることは間違いない。

3. イデオロギー的次元

 次に、イデオロギー的次元からグリマーの思想を見てみよう。これも内政の問題と大きく関わっているが、ここで主に注目するのは住民たちの振る舞いである。グリマーの説く「平等」に疑問を抱きながらも、あくまでそれを信仰しているように行動する(ないしはそう装う)のはなぜか。それを解き明かすのがイデオロギー的な次元なのだ。住民たちが平等思想を無謬なものと見なし、ほとんど法律のごとく機能しているのは、平等思想がイデオロギーの次元にまで高められていることの証左だ。だが、それが見せかけであることもまた事実である。私たちはよほど鈍感でない限り、それが見せかけの平等であることを知っている(だからこそフラッターシャイが鈍感さをピンキーパイによって咎められている)。だが、その見せかけこそが重要なのだ。この見せかけの平等こそが住民の心を束縛するのである。スラヴォイ・ジジェクの『イデオロギーの崇高な対象』から、同じくスターリニズムについての分析を引用してみよう。

〔政治の〕舞台裏では野蛮な党派闘争が繰り広げられていることは誰もが知っている。にもかかわらず、どんな犠牲を払っても、<党>の統一という見かけは保持しなければならない。支配的イデオロギーを誰も信じてはいない。誰もがそこからシニカルな距離を保っている。そして誰も信じていないということを誰もが知っている。それでもなお、人びとは情熱を傾けて社会主義を建設しており、<党>を支持している、という見かけを、何が何でも保持しなければならないのである。(『イデオロギーの崇高な対象』、2015年、ちくま文庫、PP.366-7)

<党>の統一をグリマーに、野蛮な党派闘争は彼女が行うキューティーマークを剥がす儀式に、社会主義を平等思想に置き換えて読んでみると、かなり的を得た指摘ではないだろうか。実際は平等ではないことを誰もが知っておきながら、それにあえて従う。このことについて、続けて引用しよう。

この見かけは本質的なものである。もし壊れると――たとえば誰かが「王様は裸だ」(誰も支配的イデオロギーを本気では信じていない)という明白な事実を公に口に出したら、ある意味でシステム全体が崩壊する。なぜか。いいかえると、もし誰もが「王様は裸だ」ということを知っていて、他のみんなが全員それを知っているということを誰もが知っていたとしたら、いったい何のために、どんな犠牲を払っても見かけを保持しなければならないのか。もちろん一貫した答えがある。<大文字の他者>〔のため〕だ。(同書、P.367)

 見せかけだけの平等(それはグリマーが村長という立場にいるという客観的レベルの話から、明らかに権力を手中に収めている様子が描写されている主観的レベルの話までさまざまなことが言える)に過ぎないはずのものが、人々の心を束縛し、他人よりも優れるようになること(=キューティーマークを持つこと)への過剰なまでの恐怖感を抱かせるようになる理由がこれである。<大文字の他者>とは精神分析の用語だが、やはり法律や規則といったものとしてここでは理解して良い。そして平等村で法律として機能しているのはグリマー自身である。平等思想がまるで法律のように振る舞いかつそれが承認され、住民たちの行動を制限しているのは、<大文字の他者>つまりイデオロギーの次元にまで高められているためなのだ。たとえばパーティー・フェイバーが監禁部屋へ自ら志願し収容された時に、独り言でキューティーマークを取り戻したいということを嘆き(グリマーに聞こえもしないのに)、メーン6の策略に全く同意しないどころかグリマーの思想を受け入れるのは時間の問題だと言った時には、まさに彼が平等思想を身も心も実現していなければならないという強迫的観念に従っているからなのだ。 

4. 小結論

 ひとまず平等村についての試論をここで終えておこう。より入念な分析は今後機会があれば行おうかと思う。とにかくここで指摘したかったのは、グリマーはコミュニストでは全くないということだ。彼女は二つの理由において、社会主義を信じていないスターリンに比されるべき存在なのである。一つ目は内政という点において、彼女の振る舞いとその動機についての分析を通じて。二つ目が平等思想のイデオロギー機能において、いかに村全体に浸透しているかについての住民たちの行動の分析を通じて。ぶっちゃけて言えば、グリマーを共産おばさんというクッソ卑劣な名称で呼ばれることがなんか気に食わなかったのだ。まあともかく、MLPもこの程度までは分析できるのではないか、という一つの指標になれば幸いである。

 

 

ロシア革命―レーニンからスターリンへ、1917‐1929年 (岩波現代文庫)

ロシア革命―レーニンからスターリンへ、1917‐1929年 (岩波現代文庫)

 

言わずと知れた名著。この本に限らずE.H.カーの作品は良著が多い。 

 

イデオロギーの崇高な対象 (河出文庫)

イデオロギーの崇高な対象 (河出文庫)

 

 現代思想の生ける人気者ジジェクのデビュー作。ぶっちゃけ難解なので下の本から入ることをオススメする。

 

ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!

 

 <大文字の他者>とか、精神分析について一通り知れる本。映画を精神分析でぶった切る面白い本。

 

 

自由の問題 (岩波新書 青版 344)

自由の問題 (岩波新書 青版 344)

 

 めっちゃ安いから買って読んだ方がいい。1959年の本だが、当時の時代状況を鑑みても古びない隠れた名著だと思う。

*1:英語表記ではOur Town、つまり直訳すると「私たちの町」という名称になるが、一般に言われている呼称として、ここでは「平等村」という名称を与えることにした。

*2:たとえばhttp://trixietales.blog.fc2.com/blog-entry-572.htmlを参照。また、ワーミー(Whammy)の「Analysis is Magic」における分析でも、やはり「スターライトグリマーはコミュニストか?」という問いが立てられている(https://analysisismagic.wordpress.com/2015/04/11/is-starlight-glimmer-a-communist/)。ただし、後者の結論としてはグリマーはコミュニストではないという分析がなされている。その理由は二つ挙げられている。一つ目に、マルクスの「政治的解放」批判の点から、グリマーの思想がホッブズ的な「万人の万人に対する戦い」に基づくものであるということ、そして二つ目にマルクスの「疎外労働」の点から、むしろメーン6やシュガーベルたちの思想の方がマルクス主義的立場に近いということを明らかにしていた。およそMLPにおける経済的な分析というものは意味をなさないが、これらの観点からであれば、グリマーがマルクス主義的な原理にかなり背いているということは証明できると思われる。

*3: https://www.fimfiction.net/group/207039/starlight-glimmers-dictatorshipを参照。

*4:たとえば日本におけるグリマーのあだ名の一つに「共産おばさん」というものがある。

*5:たとえば岡本清一の『自由の問題』(岩波新書、1959年)を参照。