しぶさわ忍法帖

しぶさわレーニン丸のネタ帳です。

ポケ森は「政治」に奉仕するゲームである

先日リリースされた『 どうぶつの森 ポケットキャンプ』(以下、ポケ森)というスマホゲーをめぐって、格ゲー界隈では「戦い」という概念が存在しないゆえに困惑するユーザーが出ている。

 

  

確かにポケ森は、誰かとキャンプ場の開発競争を行う訳でもなく、昔あった「落とし穴のタネ」という「侵略」のためのアイテムがあるわけではない(この辺は昔のどうぶつの森シリーズを参照)。では、このゲームの本質は一体どこにあるのだろうか。私が思うに、このゲームの本質は「政治」にあると思われる。

 

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(ポケ森アプリのスクリーンショット

 

そもそもこのポケ森というゲームは、キャンプ場の「管理人」となって、「家具やオブジェをたくさんかざって、どうぶつたちの集まるにぎやかなキャンプ場を作ってい」くことにある(註1)。そもそも格闘ゲーム的な要素はいっさい存在しない。これは過去のどうぶつの森シリーズでも一貫している。では、なぜ「戦い」ではなく「政治」なのか。

 

ここで、「政治」と聞いて、選挙活動や、住民たちによる新たなオブジェ設置反対運動といった具体的な政治活動を思い浮かべる人もいるかもしれない。だが、ご存知の通り、ポケ森にはそういったものは存在しないどころか、過去のどうぶつの森シリーズ全体を見渡してもそんなものは存在していない。「『どうぶつの森』シリーズは『政治』をめぐるゲームなのだ」などともしも知り合いに言ったら、噴飯物と捉えられてもおかしくないかもしれない。

 

しかし、たとえば『とびだせ どうぶつの森』では、プレイヤーが村長となって、橋やベンチを設置する「公共事業」を行ったり、あるいは村内の店の開店時間や閉店時間を変更させる「条例」を制定したりすることができる。こういった要素は、実に現実の「政治」を思わせるものであると言えるだろう。

 

ここで、私が政治という単語をカッコで括った理由について説明したい。私が念頭に置いている「政治」とは、哲学者ミシェル・フーコーが述べるところの「生-政治(Bio-politics)」のことである。これは、現代社会の支配体系の一種として、彼が作った造語である。その意味を簡単に述べると、「市民一人ひとりが心から服従するような政治」のことである。ポケ森のどうぶつたちは、心からプレイヤー(として設定されるキャンプ場管理者/支配者)のキャンプ場に居座ろうと欲する。そしてプレイヤーは、「なかよし度」というパロメーターを上昇させるために、魚やフルーツ、昆虫といった各々の動物たちの「おねがい」という物質的欲望を実現し、管理/統治を行う。

 

したがって、このゲームの真の主題とは、「どうぶつたちにそうと気付かれることなく統治する」という点にあるのではないだろうか。より具体的に言えばポケ森は、プレイヤーが、どうぶつたちの「おねがい」を実現し、キャンプ場に囲い込むことによって、どうぶつたちの欲望を管理/統制することに奉仕するゲームなのだ。こうした意味では、ポケ森は、プレイヤーが効率的な管理/統治を行うために、いかにしてプレイヤー自身の生活と「戦う」か(些か陳腐な言い回しではあるが)と言うこともできる。したがって、ポケ森にある「おねがいチケット」とは、どうぶつたちのさらなる「おねがい」を生み出させるチケットのことなのだが、これも言い換えればどうぶつたちの欲望を生産するための装置の一種であり、「生-政治」を行う上でも重要な役割を果たす。どうぶつたちに無限の欲望を発生させ、それを無限に管理/統治していくゲーム。これに奉仕することができるか否かが、ポケ森を楽しんでプレイする上で求められる資質なのではないだろうか。

  

(註1)

任天堂公式ホームページ(https://ac-pocketcamp.com/ja-JP/site/about)より。

 

おことわり

ところで、フーコーと聞いて「パノプティコン」という監視装置を思い浮かべる方もいるかもしれない。これについての考察はより専門的な見地から行う必要があるため、稿を改めたいと思う。

 

 

自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学

 

フーコーの理論による 管理/支配の政治についてはこの本が参考になる。