しぶさわ忍法帖

しぶさわレーニン丸のネタ帳です。

レーニン10巻選集・総目次

 Wikiによれば『レーニン10巻選集』は戦後最も普及した『レーニン選集』の一つであり、また100以上もの大学図書館が所蔵している選集であるという。だが、ネットを参照しても各巻に何が所収されているのかはパッとは分からない。そのうえレーニンの年表と併せてみても、選集と銘打たれている以上、必ずしもその年に書かれたレーニンの文書が載っているとも限らない。そこで、久しぶりにブログの更新ネタとして選集の総目次を簡単にではあるが作成してみた。以下、Wiki等の情報も付記したうえでその内容を示す。

 また、もしも古本屋やAmazonなどで『レーニン10巻選集』が安価で手に入れられる機会があれば、購入してみてはいかがだろうか。最近ではレーニンの著作は文庫本で手に入れられるが、こういった著作集や選集では、当時の訳者や編者の熱意あるいは勘違いなどもそのまま残されていたりするので、現代との差異を楽しんだりするのも良いだろう。

 最後に、太字で書かれているものは単行本として入手可能であり、レーニンの著作の中でも有名なものだ。したがって、もしもレーニン10巻選集を入手する場合は、まずは第2巻から手に入れるといいだろう。

 

・第1巻:1893-1903年の著作・文献

「いわゆる市場問題について」

「「人民の友」とはなにか、そして彼らはどのように社会民主主義者とたたかっているか?」

フリードリヒ・エンゲルス

社会民主党綱領草案と解説」

「ロシア社会民主主義者の任務」

「農業における資本主義」

「われわれの綱領」

「われわれの当面の任務」

ストライキについて」

「『イスクラ』編集局の声明」

「なにから始めるべきか?」

「ロシア社会民主党の農業綱領」

「貧農に訴える」

「革命的青年の任務(第一の手紙)」

 

・第2巻:1902-04年の著作・文献

なにをなすべきか?

「『イスクラ』と『ラボーチェエ・デーロ』の統合の試み」

「『なにをなすべきか?」にたいする訂正」

一歩前進、二歩後退(わが党内の危機)

「同志グセフと同志デイチとの衝突」

 

・第3巻:1904-07年の著作・文献

「ロシアのプロレタリアートに訴える」

専制プロレタリアート

「労働者民主主義とブルジョア民主主義」

「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」

「ブルィギン国会のボイコットと蜂起」

「農民運動にたいする社会民主党の態度」

「小ブルジョア社会主義とプロレタリア社会主義

「われわれの任務と労働者代表ソヴェト(編集局への手紙)」

「党の再組織について」

「党の組織と党の文学」

社会主義無政府主義

社会主義政党無党派的革命運動」

「革命の諸段階、方向および見とおし」

「労働者党の農業綱領の改訂」

「国会の解放とプロレタリアートの任務」

「モスクワ蜂起の教訓」

パルチザン戦争」

社会民主主義と選挙協定」

「国会にだれをえらぶか?」

マルクスのクーゲルマンへの手紙のロシア語版序文」

「国会選挙とロシア社会民主党の戦術」

「『J・F・ベッカー、J・ディーツゲン、F・エンゲルス、K・マルクスその他からF・A・ゾルゲその他への手紙』のロシア語版序文」

「全国民的革命の問題について」

「ボイコットに反対する」

 

・第4巻:1907-09年の著作・文献

「『ロシアにおける資本主義の発展』第二版の序文」

「一九〇五-一九〇七年の第一次ロシア革命における社会民主党の農業綱領」

労働組合の中立性」

マルクス主義と修正主義」

「好戦的軍国主義社会民主党の反軍国主義的戦術」

ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ

学生運動と今日の政治情勢」

「現情勢の評価について」

「大道へ」

「宗教にたいする労働者党の態度について」

「『プロレタリー』拡大編集局会議」

「『プロレタリー』拡大編集局会議についての通報」

「国会活動にかんするボリシェヴィキの任務についての演説と決議案」

「解党主義の清算

「八時間労働日法趣旨文草案の説明書」

 

・第5巻:1910-14年の著作・文献

「統一にむかって」

「政論家の覚え書」

「革命の教訓」

「ロシアにおける党内闘争の歴史的意味」

「ロシアのストライキ統計について」

「ヨーロッパの労働運動における意見の相違」

マルクス主義の歴史的発展の若干の特質について」

農奴制崩壊五〇周年」

「ロシア社会民主党内の改良主義

「党の危機の大詰」

「ゲルツェンの追想

「ロシアの諸政党」

「経済的ストライキと政治的ストライキ

「革命的高揚」

「二つのユートピア

「資本主義社会における貧困化」

カール・マルクスの学説の歴史的運命」

マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」

「アジアの目ざめ」

「後進的なヨーロッパと先進的なアジア」

階級闘争自由主義的概念とマルクス主義的概念について」

「論争問題」

マルクス主義改良主義

「ヴェ・ザスーリチはどのように解党主義をほうむるか」

「テイラー・システムは人間を機械の奴隷にする」

「ロシアにおける労働者出版物の歴史から」

「統一の叫びにかくれた統一の破壊について」

民族自決権について」

 

・第6巻:1914-16年の著作・文献

カール・マルクス(略伝とマルクス主義の解説)」

「戦争とロシア社会民主党

「大ロシア人の民族的誇りについて」

「よその旗をかかげて」

弁証法の問題について」

「第二インタナショナルの崩壊」

「平和の問題」

社会主義と戦争(戦争にたいするロシア社会民主労働党の態度)」

「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」

「革命の二つの方向について」

「エヌ・ブハーリンの小冊子『世界経済と帝国主義』の序文」

社会主義革命と自決権(テーゼ)」

「第二回国際社会主義会議へあてたロシア社会民主労働党中央委員会の提案」

「資本主義の最高の段階としての帝国主義(一般向け概説)」

「世界の分割状況(民族的発展との関連における)

「ユニウスの小冊子について」

 

・第7巻:1916-17年の著作・文献

「自決にかんする討論の総括」

「ベ・キエフスキー(ユ・ピャタコーフ)への回答」

マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について」

「プロレタリア革命の軍事綱領」

帝国主義社会主義の分裂」

「青年インタナショナル(覚え書)」

「一九〇五年の革命についての講演」

「遠方からの手紙」

「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」

「戦術にかんする手紙」

「わが国の革命におけるプロレタリアートの任務(プロレタリア党の政綱草案)」

「ロシア農村労働者組合を設立する必要について」

「スローガンについて」

「立憲的幻想について」

ボナパルティズムの始まり」

「革命の教訓」

「妥協について」

さしせまる破局、それとどうたたかうか

「革命の一根本問題」

 

・第8巻:1917-18年の著作・文献】

国家と革命

「革命の任務」

マルクス主義と蜂起」

「政論家の日記から」

ボリシェヴィキは国家権力を維持できるか?」

「党綱領の改正によせて」

「一局外者の助言」

ロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会会議決議」

「労働者・兵士代表ソヴェト第二回全ロシア大会」

「労働者と勤労日搾取農民の同盟」

「競争をどう組織するか?」

「勤労被搾取人民の権利の宣言」

ロシア共産党(ボ)第七回臨時大会」

「ソヴェト権力の当面の任務」

「「左翼的」幼稚さと小ブルジョア性について」

アメリカの労働者への手紙」

 

・第9巻:1918-20年の著作・文献

「ピチリーム・ソローキンの貴重な告白」

「プロレタリア革命と背教者カウツキー」

共産主義インタナショナル第一回大会」

ロシア共産党(ボ)第八回大会」

「第三インタナショナルとその歴史上の地位」

ハンガリーの労働者へのあいさつ」

「偉大な創意(銃後の労働者の英雄精神について。「共産主義土曜労働」にかんして)」

「国家について」

「ソヴェト共和国における婦人労働運動の任務について」

プロレタリアートの執権(デイクタツーラ)の時期における経済と政治」

「東洋諸民族共産主義組織第二回全ロシア大会での報告」

憲法制定議会の選挙とプロレタリアートの執権(デイクタツーラ)」

デニーキンにたいする勝利にさいしてウクライナの労働者と農民に送る手紙」

「ロシア語の純化について(ひまなときに、つまり集会で演説を聞いているあいだに浮かんだ随想)」

共産主義内の「左翼主義」小児病

 

・第10巻:1920-23年の著作・文献

共産主義インタナショナル第二回大会のためのテーゼ」

共産主義インタナショナル第二回大会」

オーストリア共産主義者への手紙」

「青年同盟の任務(ロシア共産青年同盟第三回全ロシア会議での演説)」

「プロレタリア文化について」

「県および郡国民教育部政治教育委員会全ロシア会議での演説」

労働組合について、現在の情勢について、同志トロツキーの誤りについて」

「ふたたび労働組合について、現在の情勢について、同志トロツキーと同志ブハーリンの誤りについて」

「国際労働婦人デー」

ロシア共産党(ボ)第十〇回大会」

「食糧税について(新政策の意義とその諸条件)」

共産主義インタナショナル第三回大会」

十月革命四周年によせて」

「現在と社会主義の完全な勝利後とにおける金の意義について」

「三つのインタナショナルの会議にかんする資料」

「戦闘的唯物論の意義について」

「われわれは高い代価を払いすぎた」

共産主義インタナショナル第四回大会」

「ヴェ・イ・レーニンの最後の手紙と論文」

「Ⅰ 大会への手紙」

「Ⅱ」

「一九二二年一二月二四日付の手紙への追記」

「Ⅲ」

「Ⅳ ゴスプランに立法機能をあたえることについて」

「Ⅴ」

「Ⅵ」

「Ⅶ (中央委員の増員にかんする節へ)」

「民族問題または「自治化」の問題によせて」

「民族問題または「自治化」の問題によせて(つづき)」

「協同組合について」

「量よりも質を」

 

・別冊第1巻:ロシアにおける資本主義の発展(1899年)

ロシアにおける資本主義の発展

 

・別冊第2巻:唯物論と経験批判論(1908年)

唯物論と経験批判論

 

 

帝国主義論 (光文社古典新訳文庫)

帝国主義論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

国家と革命 (講談社学術文庫)

国家と革命 (講談社学術文庫)

 

 

レーニンの全翻訳については、このサイトが参考になるだろう。

 

メモ:性的倒錯小論―自慰について

1月31日にTwitterで投稿した性的倒錯および自慰についての小論のまとめ。
疲れていたこともあり、語彙が統一されていなかったり、表現が些か哲学的に寄りすぎているきらいがあるが、ひとまずこれで人がなぜ異常な性欲を持ちうるのかについての考察はできているのではないだろうか。 

 

ポケ森は「政治」に奉仕するゲームである

先日リリースされた『 どうぶつの森 ポケットキャンプ』(以下、ポケ森)というスマホゲーをめぐって、格ゲー界隈では「戦い」という概念が存在しないゆえに困惑するユーザーが出ている。

 

  

確かにポケ森は、誰かとキャンプ場の開発競争を行う訳でもなく、昔あった「落とし穴のタネ」という「侵略」のためのアイテムがあるわけではない(この辺は昔のどうぶつの森シリーズを参照)。では、このゲームの本質は一体どこにあるのだろうか。私が思うに、このゲームの本質は「政治」にあると思われる。

 

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(ポケ森アプリのスクリーンショット

 

そもそもこのポケ森というゲームは、キャンプ場の「管理人」となって、「家具やオブジェをたくさんかざって、どうぶつたちの集まるにぎやかなキャンプ場を作ってい」くことにある(註1)。そもそも格闘ゲーム的な要素はいっさい存在しない。これは過去のどうぶつの森シリーズでも一貫している。では、なぜ「戦い」ではなく「政治」なのか。

 

ここで、「政治」と聞いて、選挙活動や、住民たちによる新たなオブジェ設置反対運動といった具体的な政治活動を思い浮かべる人もいるかもしれない。だが、ご存知の通り、ポケ森にはそういったものは存在しないどころか、過去のどうぶつの森シリーズ全体を見渡してもそんなものは存在していない。「『どうぶつの森』シリーズは『政治』をめぐるゲームなのだ」などともしも知り合いに言ったら、噴飯物と捉えられてもおかしくないかもしれない。

 

しかし、たとえば『とびだせ どうぶつの森』では、プレイヤーが村長となって、橋やベンチを設置する「公共事業」を行ったり、あるいは村内の店の開店時間や閉店時間を変更させる「条例」を制定したりすることができる。こういった要素は、実に現実の「政治」を思わせるものであると言えるだろう。

 

ここで、私が政治という単語をカッコで括った理由について説明したい。私が念頭に置いている「政治」とは、哲学者ミシェル・フーコーが述べるところの「生-政治(Bio-politics)」のことである。これは、現代社会の支配体系の一種として、彼が作った造語である。その意味を簡単に述べると、「市民一人ひとりが心から服従するような政治」のことである。ポケ森のどうぶつたちは、心からプレイヤー(として設定されるキャンプ場管理者/支配者)のキャンプ場に居座ろうと欲する。そしてプレイヤーは、「なかよし度」というパロメーターを上昇させるために、魚やフルーツ、昆虫といった各々の動物たちの「おねがい」という物質的欲望を実現し、管理/統治を行う。

 

したがって、このゲームの真の主題とは、「どうぶつたちにそうと気付かれることなく統治する」という点にあるのではないだろうか。より具体的に言えばポケ森は、プレイヤーが、どうぶつたちの「おねがい」を実現し、キャンプ場に囲い込むことによって、どうぶつたちの欲望を管理/統制することに奉仕するゲームなのだ。こうした意味では、ポケ森は、プレイヤーが効率的な管理/統治を行うために、いかにしてプレイヤー自身の生活と「戦う」か(些か陳腐な言い回しではあるが)と言うこともできる。したがって、ポケ森にある「おねがいチケット」とは、どうぶつたちのさらなる「おねがい」を生み出させるチケットのことなのだが、これも言い換えればどうぶつたちの欲望を生産するための装置の一種であり、「生-政治」を行う上でも重要な役割を果たす。どうぶつたちに無限の欲望を発生させ、それを無限に管理/統治していくゲーム。これに奉仕することができるか否かが、ポケ森を楽しんでプレイする上で求められる資質なのではないだろうか。

  

(註1)

任天堂公式ホームページ(https://ac-pocketcamp.com/ja-JP/site/about)より。

 

おことわり

ところで、フーコーと聞いて「パノプティコン」という監視装置を思い浮かべる方もいるかもしれない。これについての考察はより専門的な見地から行う必要があるため、稿を改めたいと思う。

 

 

自由論―現在性の系譜学

自由論―現在性の系譜学

 

フーコーの理論による 管理/支配の政治についてはこの本が参考になる。

 

フーリエのエロティシズム断想——フェチと婚姻について

最近、自民党今井絵理子議員の不倫騒動により、支持率低下が叫ばれる安倍政権にさらなる追い打ちをかけるのではないかという疑念が持たれている。昔から、こうした不倫問題が後を絶たない日本の政治だが、そうした不倫問題の根本的な解決策を見つけた人物が過去に存在した、と言ったらどう感じるだろうか。来たるべき政治システムに向けて、こうした過去の思想から学ぶことは決して無益ではないだろう。

 

……とまあ、それっぽいことを書いてみましたが、このブログで政治的なものについて触れることはないので、今読んだものは読み飛ばしてもらってオッケーです。ぶっちゃけ導入部でこんなこと書いただけなので、相変わらずフーリエについて書いていきます。

 

でもまあ、冒頭部で触れた不倫問題の解決策を見つけた、というのはあながち間違いではなくて、今回寄り道で触れるのは、まさに「フーリエのエロティシズム」についてです。前回の記事の末尾に、エロティシズムについて少し触れた箇所があったのですが、少し調べてみました。

 

やはりフーリエはエロティシズムを自身の思想に織り込んだ最初の人間かもしれません。たとえば巌谷國士は、次のように言います。

 

フーリエがその処女作『四運動の理論』のなかで、「情念引力」の科学をはじめて設定したとき……不可視の力の観念にまつわるすべての素朴な神話を包括し、ニュートンによって機械化、数学化された引力のイメージに、その本来のエロス的内実を復活させたのだと言うことができる。(巌谷國士「萬有引力考――宇宙論的エロティスム」『ユリイカ青土社1971、P.64)

 

ニュートンのリンゴの逸話というのは有名ですが、実はリンゴにちなんだ逸話はフーリエにもあります。

 

1798年、パリへ行商に来ていた貧乏商人のシャルル・フーリエが、高名な料理哲学者ブリヤ - サヴァランと食事をともにした際、そのデザートとして供されたのが、一個の貧弱な林檎であった。その林檎の値段を教えられたとき、当時26歳であったフーリエの脳裏には、ある天才的な発見の胚種が芽生えたという。(同、PP. 55-6)

 

サヴァランについても第二回でも触れましたが、意外な接点が見つかりました。

 

shibuleni.hatenablog.com

 

ともあれ、フーリエはこうした引力にまつわるエロティシズムの第一発見者だということは間違いないようです。ここでやっと本題です。フーリエの思想のどういう部分が不倫騒動を一気に解決する秘策になるのか。それはフーリエの描くユートピアについて知ることが肝要になります。

 

まず、フーリエユートピアは、権力が「人を生かす」ために、人民に尽力する世界です。三原智子は次のように述べます。

 

理想社会「ハーモニー」では、権力が、「すべての年齢にこの快楽を保障する」。階級や年齢の差を越えて、すべての人間がこの営みに参加し、あらゆる組み合わせが許される。80歳の女性がハイティーンの少年を恋人にすることも、ロシアの大公女がその女奴隷に恋することも、禁じられるどころかむしろ奨励される。許されないのは、小児性愛だけである。(三原智子シャルル・フーリエの理想社会における権力構造」群馬大学教育学部紀要 人文・社会学編』57号、2008、P. 117)

つまり、今でいうところのショタコンも、同性愛も、次に触れますがあらゆる性的倒錯が社会的に肯定される社会なのです。なぜか小児性愛だけは許されてませんが。

 

ハイヒールマニアやその他の酔狂の愛好者は、国家によって、一般の恋人たちと同様(あるいはそれ以上に)手厚く保護される。保護された多彩な性愛は、種類ごとに細分される。(同、P. 117)

 

つまるところ靴フェチも、他の性愛が肯定される社会。素晴らしいのかおぞましいのかわかりませんが、ともかくぶっ飛んでることだけは分かります。さて、問題はここからです。

 

ハーモニーでは、各自は性愛について、自分の好みと自分の履歴を官僚に告白しなければならない。すべての欲望をさらけだし、かつ、過去のすべての行為を明らかにしなければならないのだ。権力側は、告白にもとづき、当該人物についてのデータを分析し、計算し、その結果に応じて、ふさわしいパートナーを紹介する。そのデータは、個々人の管理に使われ、いつでも、どこでも、参照可能なように準備される。(同、PP. 118-9)

 

ハーモニー社会は確かにすべてが許されるユートピアである。しかし、それは、すべてが白日のもとにさらされている、という条件のもとなのである。社会全体が巨大な私的領域となったため、公権力が私的プライバシーを侵すという恐れが失われた。むしろ、権力の介入によってはじめて、性=生という個人の生命にかかわる領域が保障され、豊かなものとなるとみなされるのである。(同、P. 121)

そう、フーリエの社会ではプライバシーが存在しないのです。そんなもの必要ない。各自が隠すことなく好きな行為に勤しめる社会。あらゆる欲望が原動力となる社会こそ健全だ、というふうに考えていたのです。ただ、隠されて初めて生まれる欲望みたいなものが消滅する恐れがありますが。

さて、ここでお気づきになられた方もいるかもしれませんが、フーリエの社会は、各人が何を欲し、もっと言えば誰とまぐわっているか、全て筒抜けの社会なのです。フーリエが目指したものは統一。ドゥブーの言葉を借りると、「フーリエにおいて鍵となるのは、……集団=群の感情的生に関する知識」*1。そう、集団のあらゆる意味での統一。全ての人が全ての人と婚姻関係にある、「全婚」なのです。フーリエはサドというフランスの文学者の小説を読んでいたことは知られていますが、まさに彼は、サドの描く酒池肉林の世界を社会に実用化させようとしていた人物なのでした。

 

快楽の儀式を無限に多様化させること、そして人間同士の結びつきを無限に複数化させること――その極限的な様態として提示されたものこそが、統一種すなわち乱交の最高形態たる、「全婚」のイメージであると言ってよいかもしれないのだ。(巌谷 P. 71)

 

単婚(モノガミー)から多婚(ポリガミー)へ、さらには乱交(オルジガミー)から全婚(オムジガミー)へ。つまり一対一から一対多数へ、さらに多数対多数から全員で、という形で婚姻形態を推し進めようとしていたのです。

 

結論。不倫問題が起きるのは、婚姻が一対一の関係だから起こるのであって、それ以外なら問題にそもそもならない。というのが、フーリエの思想を通じてわかった(?)ことでした。

 

 

フーリエのユートピア

フーリエのユートピア

 

 

サド、フーリエ、ロヨラ

サド、フーリエ、ロヨラ

 

 

*1:シモーヌ・ドゥブー『フーリエユートピア今村仁司監訳、1993、平凡社、P.78

シャルル・フーリエ『産業的協同社会的新世界』読書メモ(4)

 

shibuleni.hatenablog.com

 

前回、学者とか芸術家がちゃんとした評価をされる「正立した世界」について触れたので、今回は協同社会に関する研究が全然されてこなかった理由について説明していきたいと思います。

ちなみに、フーリエによれば、彼の世界(「正立した世界」)では、学者や芸術家が欲しいもの(名声とか富とか)が、「転倒した世界」の20倍、いや100倍ものの莫大な富が一気に手に入れることができる、と述べていました。相変わらず数字が馬鹿でかい。

 

さて本題。なぜ、協同社会に関する研究がなされてこなかったのか。それは、これまで協同社会に関する研究が、ひとつの偏見に晒されてきたからだ、ということを言います。たとえばフーリエは、偏見の例として、

 

三ないし四世帯を家庭的共同体に結合すれば、一週間後にはきっと、とりわけ女房どもの間で反目が現われる。それが三十ないし四十にいたっては、さらには三百や四百にいたってはなおさらである。(P.442)

 

という話を挙げます。つまり、何人かの家庭を共同体にぶち込めば、女房がキレるだろう、しかもそれが30〜40家庭、300〜400家庭ともなればなおさらキレるだろう、ということですね。しかしフーリエは負けません。こんなものはとんでもない理屈だ、と。フーリエはどういう風に考えるか。

 

もし神が節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を望んでいるのであれば、神は出来る限り多数の世帯からなる協同世界についてしか考察しえなかったであろうから。(P.442)

 

……つまり、神が節約とか統制というものを望んでいるのであれば、できるだけ大多数の人が一同に暮らすような協同社会(つまり家)についてしか考えなかっただろう、ということが言いたいのだと思います。一人暮らしよりも実家暮らしの方が経済的だし、家族と一緒に住んでいれば、ご飯を作るにしても一気に買い物や料理ができてシステマチックである、ということでしょう。そういう社会しか神は想像できなかったのだろう、ということは推測できますが、これがどう反論になっているのかは正直ここだけだと分かりづらい。ともかくフーリエの説を続けていきますと、

 

だから、三世帯、ないし三十世帯においては小規模だったのでうまくいかなかったということは、非常に多くの世帯(三百とか四百)においては成功する兆しであったのだ。それには、神に望まれており、また協同社会機構への神の顕現である「引力」(アトラクシオン)の要求にかなっている自然的協同社会の理論もしくは方法を、前もって発見すればよかったのだ。神は引力によって物質界を司っている。もし神が、社会の統轄のために別の手段を用いているとすれば、神の体系のなかには、行動の統一性(ユニテ)ではなくて、二元性(デュブリシテ)が存在していることになるであろう。(P.442-3)

 

オッケー、少しずつ読んでいきましょう。もうすでに頭が混乱してきましたが、負けません。3〜4、30〜40世帯という少ない世帯ではうまくいかったということは、300〜400では成功する兆しなのだ、というところ。300〜400という数ですが、イメージ的には、自分が住んでる地域(町とか村)の一区画もろもろの家庭が集合する、というようなものでしょうか。ともあれ、なぜ成功する兆しなのか。普通に考えれば、どうしても隣近所の家庭と家族ぐるみの付き合いができる、というだけでも今の時代であれば凄いことのように感じますね。まあ30〜40だとごく少数の地域(具体的には言いませんが……)では可能かもしれません。ともあれ、現代では実践できる/できている地域というのはごく稀なケースなのは間違いないでしょう。

寄り道が長くなりましたが、成功する兆しになる理由について。それは神の要求に従った自然的協同社会の理論または方法を、前もって見つければよかったのだ! という理由になっていない理由をフーリエは挙げます。何が理由になっていないって、神による云々ではなく、「前もって発見する」というところにあります。「偏見にさらされてるから、偏見を覆せる理由を前もって見つけておけば、偏見は直せる」というのは、少なくとも偏見がまかり通っているような状況では、ただちに偏見が修正できるとは限らないでしょう。それがましてやフーリエのように直情的に、病的なまでに数字に拘りながら理由を挙げようとするとなると、その偏見を後押ししかねない部分もあることでしょう。

ともあれ、フーリエによれば神は引力というパワーによって物質界を支配し、統一的な社会を実現しようとしていると言います。さきほど挙げた「節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を〜」の件は、ここになってようやく真意が見えてきた気がします。あくまで推測ですが。

つまり、

①神が節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を望んでいるのであれば、大多数の世帯からなる協同社会を考察していただろう(フーリエの希望通りの社会)

②しかし現在そうではないため、むしろ豪遊やバラバラな個人主義を後押しするような社会であることが推奨されている(現状の社会)

③資本主義というものは、いかに金を使わせ、いかに個人単位まで金を落とさせるかということしか考えていないじゃないか(筆者の推測)

という批判がフーリエにはあったのではないか。こうしてみると結構的を射た考えなのかもしれません。

 神の真意は資本主義ではない。これこそがフーリエが強調したい部分かもしれません。ではなぜ資本主義が勃興してきたのかについては、フーリエは触れてくれません。しかし、少なくとも資本主義の悲惨な現実をフーリエは目の当たりにしてきました。商人の息子として、親に社会の汚い部分を見せつけられて、嫌気が差したのは間違いないでしょう。この、資本主義社会の闇については次回触れることにして、今は神が引力による統制を目指していたという点に戻りましょう。

これも仮定の話ですが、神がもしも引力ではない別の手段によって社会を統制しているとすると、そこには二元性が存在することになるとフーリエは説きます。

引力は重要です。フーリエにとって引力は、なにも自然科学的な意味での引力だけではなく、物質間にも作用する力だからです(フーリエフェティシズムの祖とした論文も確かあったはずです、次回までに調べます)。今の社会でも、「魅力的な人物」とか、「人を惹きつける力」といった言い回しがありますね。その根本はフーリエにあったのかもしれません。引力は人と人、人と労働、など、全てを包括する巨大なシステムです。これ以外に神が社会統制で用いる手段は存在しないだろう、とまでフーリエは考えていたといっても過言ではないかもしれません。

 

ヒューマン・アクション―人間行為の経済学

ヒューマン・アクション―人間行為の経済学

 

 フーリエとはまったく関係ありませんが、読みたい本の一つをはっつけておきます。社会主義経済の矛盾について書いた本(以前教授に教えて貰った本)らしいのですが高すぎて手が出ません。お兄さんお姉さん助けて!

 

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス: 生涯とその思想

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス: 生涯とその思想

 

 

<平等村>試論——S.グリマーのイデオロギーについて

0. 前書き

ここでは、My Little Pony(以下、MLP)のシーズン5(以下、S5)のエピソード1および2(それぞれ以下E1、E2)における、平等村*1を支配していたスターライトグリマー(以下、グリマー)のイデオロギーについて説明する。平等村におけるグリマーの立ち振る舞いから、多くの視聴者は社会主義を想起*2したり、偽善的な独裁者といったイメージを持ったり*3していたが、果たしてグリマーの思想の中核とは何だったのかについて明らかにしたものは、少なくとも筆者が確認した限り、確認されなかった。そのため、この記事では、平等村におけるグリマーの行動および平等村の住民のグリマーへの反応から、グリマーの思想および平等村のイデオロギー的構造について明らかにする。

1. 平等村におけるグリマーの振る舞いについて

 まずは、平等村におけるグリマーの振る舞いについて見ていこう。そもそも、S5E1-2におけるグリマーの発言の要旨は、以下の2つに大別される。

  1.  個性(=キューティーマーク)を捨てることで、皆が平等になる
  2. 個性を持つことは、差別の原因となるため、危険である(=平等になれない)

しかし、グリマーの行動レベルで見てみると、フラッターシャイによって、実は彼女自身がキューティーマークを有しており、それを隠蔽することによって平等であると見せかけていただけだと明かされた。そして物語の結末として、グリマーは平等村の住民の前でその事実を暴露された結果、反乱が起き、村から放逐されたのだった。グリマーの説く平等とは、あくまで他者を抑圧するために説かれるものであり、自らを特権的な立場に留めておくための手段に過ぎなかったことが住民たちが理解したからだ。

 このことから普通私たちは、真の平等とはお互いの個性(=キューティーマーク)を尊重しあえることなのだ、というメッセージを、S5E1-2から読み取る。共産主義的な思想を持つとされたグリマー*4が敗北し、自由主義的な思想を持つメーン6たちが勝利する。実に自由主義を標榜するアメリカ的な結末だ、と考える視聴者もいるかもしれない。だが、彼女は実はまったく共産主義的な思想を持ってはいない。そもそも平等=共産主義とはもはやかなり古い発想であるからだ*5

 したがって、立てられるべき問いは次のようなものになる。なぜグリマーは平等思想を維持できていたのか、だ。分析に当たって見られるべき次元は二つである。一つは内政の次元、二つにイデオロギーの次元。結論を先取りして言えば、スターライトグリマーの思想とはスターリン主義であることを明らかにしていく。

2. 内政の次元

 まず重要なのは内政という観点である。この観点において、グリマーはほとんどスターリン的手腕を発揮している。たとえばグリマーの、S5E1においてトワイライトたちを出迎えたあとの独白シーンに注目してみよう。

まあ、このことは間違いなく私たちの小さなコミュニティの景気付けになることでしょう。エクエストリアの残りのポニーたちが、私たちの村に加入するためにプリンセスが彼女のキューティーマークを諦めたと知ったら、彼らはついに私たちが達成しようとしていることを理解してくれるでしょうね。(http://mlp.wikia.com/wiki/Transcripts/The_Cutie_Map_-_Part_1より。邦訳は筆者。)

 

ここで彼女は大いなる政治的野心を覗かせていることから、彼女の立場はスターリンの採った一国社会主義の立場をも思わせる。経済基盤については深くは掘り下げないが、少なくとも彼女にとってエクエストリアとは、追いつき、追い越すべき対象なのであって、そしてそこは彼女の思想を広めるためのうってつけの場所なのだ。たとえエクエストリアにおいて平等が実現されていようといまいと、グリマーにとっては問題にならない。なぜなら彼女の考える平等とはまったく仮象のものだからだ。ここで、『ロシア革命』におけるE. H. カーのスターリンに対する分析を引用してみよう。

彼〔=スターリン〕は、彼の意志を妨害する人々に対して残酷で、恨み深く、あるいは憤激や反感をかきたてたりした。彼のマルクス主義社会主義への傾倒は、ほんの表面的なものに過ぎなかった。社会主義は、客観的経済状況から、そして資本主義の抑圧的支配に対する階級意識をもった労働者の反乱から生じたものではなかった。それは、上から、恣意的に力によって課せられるべきものなのであった。スターリンの大衆への態度は、侮蔑的であった。彼は自由と平等に無関心であった。彼は、ソ連以外のいかなる国での革命の展望にも冷笑的であった。(『ロシア革命』、2000年、岩波現代文庫、P.243)

したがって、彼女が内政に注力するのはまったくもってスターリンのそれと同等の理由である。住民同士に監視させ密告させあったり、密告された住民を反乱分子として監禁部屋に閉じ込め、村のスローガンを何度も浴びせるように聞かせたりするのも、過剰に異論や反発を恐れるグリマーの疑心暗鬼の所業である。もちろんスターリンほど残酷ではないが、いわゆる少女向けのアニメで取られる手段としてはかなり異様なものであることは間違いない。

3. イデオロギー的次元

 次に、イデオロギー的次元からグリマーの思想を見てみよう。これも内政の問題と大きく関わっているが、ここで主に注目するのは住民たちの振る舞いである。グリマーの説く「平等」に疑問を抱きながらも、あくまでそれを信仰しているように行動する(ないしはそう装う)のはなぜか。それを解き明かすのがイデオロギー的な次元なのだ。住民たちが平等思想を無謬なものと見なし、ほとんど法律のごとく機能しているのは、平等思想がイデオロギーの次元にまで高められていることの証左だ。だが、それが見せかけであることもまた事実である。私たちはよほど鈍感でない限り、それが見せかけの平等であることを知っている(だからこそフラッターシャイが鈍感さをピンキーパイによって咎められている)。だが、その見せかけこそが重要なのだ。この見せかけの平等こそが住民の心を束縛するのである。スラヴォイ・ジジェクの『イデオロギーの崇高な対象』から、同じくスターリニズムについての分析を引用してみよう。

〔政治の〕舞台裏では野蛮な党派闘争が繰り広げられていることは誰もが知っている。にもかかわらず、どんな犠牲を払っても、<党>の統一という見かけは保持しなければならない。支配的イデオロギーを誰も信じてはいない。誰もがそこからシニカルな距離を保っている。そして誰も信じていないということを誰もが知っている。それでもなお、人びとは情熱を傾けて社会主義を建設しており、<党>を支持している、という見かけを、何が何でも保持しなければならないのである。(『イデオロギーの崇高な対象』、2015年、ちくま文庫、PP.366-7)

<党>の統一をグリマーに、野蛮な党派闘争は彼女が行うキューティーマークを剥がす儀式に、社会主義を平等思想に置き換えて読んでみると、かなり的を得た指摘ではないだろうか。実際は平等ではないことを誰もが知っておきながら、それにあえて従う。このことについて、続けて引用しよう。

この見かけは本質的なものである。もし壊れると――たとえば誰かが「王様は裸だ」(誰も支配的イデオロギーを本気では信じていない)という明白な事実を公に口に出したら、ある意味でシステム全体が崩壊する。なぜか。いいかえると、もし誰もが「王様は裸だ」ということを知っていて、他のみんなが全員それを知っているということを誰もが知っていたとしたら、いったい何のために、どんな犠牲を払っても見かけを保持しなければならないのか。もちろん一貫した答えがある。<大文字の他者>〔のため〕だ。(同書、P.367)

 見せかけだけの平等(それはグリマーが村長という立場にいるという客観的レベルの話から、明らかに権力を手中に収めている様子が描写されている主観的レベルの話までさまざまなことが言える)に過ぎないはずのものが、人々の心を束縛し、他人よりも優れるようになること(=キューティーマークを持つこと)への過剰なまでの恐怖感を抱かせるようになる理由がこれである。<大文字の他者>とは精神分析の用語だが、やはり法律や規則といったものとしてここでは理解して良い。そして平等村で法律として機能しているのはグリマー自身である。平等思想がまるで法律のように振る舞いかつそれが承認され、住民たちの行動を制限しているのは、<大文字の他者>つまりイデオロギーの次元にまで高められているためなのだ。たとえばパーティー・フェイバーが監禁部屋へ自ら志願し収容された時に、独り言でキューティーマークを取り戻したいということを嘆き(グリマーに聞こえもしないのに)、メーン6の策略に全く同意しないどころかグリマーの思想を受け入れるのは時間の問題だと言った時には、まさに彼が平等思想を身も心も実現していなければならないという強迫的観念に従っているからなのだ。 

4. 小結論

 ひとまず平等村についての試論をここで終えておこう。より入念な分析は今後機会があれば行おうかと思う。とにかくここで指摘したかったのは、グリマーはコミュニストでは全くないということだ。彼女は二つの理由において、社会主義を信じていないスターリンに比されるべき存在なのである。一つ目は内政という点において、彼女の振る舞いとその動機についての分析を通じて。二つ目が平等思想のイデオロギー機能において、いかに村全体に浸透しているかについての住民たちの行動の分析を通じて。ぶっちゃけて言えば、グリマーを共産おばさんというクッソ卑劣な名称で呼ばれることがなんか気に食わなかったのだ。まあともかく、MLPもこの程度までは分析できるのではないか、という一つの指標になれば幸いである。

 

 

ロシア革命―レーニンからスターリンへ、1917‐1929年 (岩波現代文庫)

ロシア革命―レーニンからスターリンへ、1917‐1929年 (岩波現代文庫)

 

言わずと知れた名著。この本に限らずE.H.カーの作品は良著が多い。 

 

イデオロギーの崇高な対象 (河出文庫)

イデオロギーの崇高な対象 (河出文庫)

 

 現代思想の生ける人気者ジジェクのデビュー作。ぶっちゃけ難解なので下の本から入ることをオススメする。

 

ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!

 

 <大文字の他者>とか、精神分析について一通り知れる本。映画を精神分析でぶった切る面白い本。

 

 

自由の問題 (岩波新書 青版 344)

自由の問題 (岩波新書 青版 344)

 

 めっちゃ安いから買って読んだ方がいい。1959年の本だが、当時の時代状況を鑑みても古びない隠れた名著だと思う。

*1:英語表記ではOur Town、つまり直訳すると「私たちの町」という名称になるが、一般に言われている呼称として、ここでは「平等村」という名称を与えることにした。

*2:たとえばhttp://trixietales.blog.fc2.com/blog-entry-572.htmlを参照。また、ワーミー(Whammy)の「Analysis is Magic」における分析でも、やはり「スターライトグリマーはコミュニストか?」という問いが立てられている(https://analysisismagic.wordpress.com/2015/04/11/is-starlight-glimmer-a-communist/)。ただし、後者の結論としてはグリマーはコミュニストではないという分析がなされている。その理由は二つ挙げられている。一つ目に、マルクスの「政治的解放」批判の点から、グリマーの思想がホッブズ的な「万人の万人に対する戦い」に基づくものであるということ、そして二つ目にマルクスの「疎外労働」の点から、むしろメーン6やシュガーベルたちの思想の方がマルクス主義的立場に近いということを明らかにしていた。およそMLPにおける経済的な分析というものは意味をなさないが、これらの観点からであれば、グリマーがマルクス主義的な原理にかなり背いているということは証明できると思われる。

*3: https://www.fimfiction.net/group/207039/starlight-glimmers-dictatorshipを参照。

*4:たとえば日本におけるグリマーのあだ名の一つに「共産おばさん」というものがある。

*5:たとえば岡本清一の『自由の問題』(岩波新書、1959年)を参照。

シャルル・フーリエ『産業的協同社会的新世界』読書メモ(3)余談

しぶさわです。

いきなりですが、今回はこんな画像を紹介します。

 

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(↑『世界の名著42』の巻末より)

ちょっと見切れてますが、うまいことコピーできなかったので許してください。

説明すると、コレはフーリエが1808年、彼が36歳にして匿名で出した『四運動の理論』(正式には『四運動および一般的運命の理論』)の第3版(1846年)に掲載された図です(日本語訳は田中正人氏による)。坂本慶一氏によれば、この図は人間社会ならびに宇宙の万物が統一と調和の方向を辿ることを表しているもので、当時のフーリエは、人類がまだ図中の第一局面のなかばを過ぎただけに過ぎないと考えていたらしい。そして、人類はやがて壊乱と混沌を脱して、上昇的調和(第二局面)の時代に移行する。しかしさしあたり、人類は第一局面の8つの時代を経過しなければならないのだという。それはつまり、

  • 産業発生前期
    (K)無人の混沌状態
    (1)原始時代、いわゆるエデン
    (2)野蛮時代または無気力
  • 分裂・虚偽・矛盾の産業期
    (3)家長時代、中規模産業
    (4)未開時代、中規模産業
    (5)文明時代、大規模産業
  • 協同社会的・真実的・魅力的産業期
    (6)保証主義時代、半協同社会
    (7)連合主義時代、単純協同社会
    (8)調和主義時代、複合協同社会

の8つの時代だ。そろそろ読者の頭がこんがらがってきたことだろう。大丈夫、私もこんがらがっている。とりあえず、Kとはフーリエがあいまいな時代を示す場合に用いる記号らしく、これまで「産業的〜」をお読みになった方なら、当時のフランスは(5)の時代に位置付けられるということが分かるだろう(フーリエが文明時代を敵視してることからも推測がつく)。したがって、フーリエは来るべき協同社会的・真実的・魅力的産業期を迎えるために、ファランジュを建設しようとしていたことが分かるのだ!

もういい加減疲れてきたので、息抜きに「じゃあ実際のところファランジュってどんな社会なの?」と思われる読者もいることだろうから、ファランジュの設計について少し触れてみよう(今回はもう本文に触れるのをここで断念した)。坂本慶一氏によると、ファランジュとはもともと古代マケドニア軍の方陣ファランクスからとった名前であり、そこは最小400人、最大2000人、平均1620人の老若男女がいて、一人当たり一ヘクタールの農地を持った、生産と消費にわたる生活協同体であるという。そしてファランジュの住民は、ファランステールと呼ばれる広大な共同宿舎で生活するのだという(今でいうシェアハウスみたいなもの?)。ファランジュについてはわかった(?)ので、今度はファランステールについて見てみよう。ちなみにファランジュは「住民の12種の情念がことごとく満足されるよう、生産と消費の全般にわたるこまかい配慮がなされている」(P.77)らしいのだがもう知らん。

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(↑P.559より)

次にファランステールについて。まず、ファランステールは4階建てで、鳥が翼を広げたような形をしている。内部は冷暖房完備の快適な居間や寝室、共同の食堂、娯楽室、応接室、集会室などが完備され、中庭には多くの樹木や噴水、池、花壇などが設けられている。ファランステールの両側には、地下道で結ばれた教会、情念取引所(労働や娯楽のための寄合いを仲介する場所らしい)、劇場、郵便局などの公共施設が配置されており、またファランステールの前には、広場を挟んで農業経営上の建物が整然と配置されているのだという(以上まで、「ユートピア社会主義の思想家たち」『世界の名著42』中公バックス,P.77参照)。

 

余談だが、フーリエの実際には作れなかったファランステールと、フーリエに影響を受け(てしまっ)たジャン=バチスト・アンドレ・ゴダン(1817-1888)が実際に作ってしまったファミリステールという建物の比較を紹介したサイトがある。なぜ実際に作ったし。

https://www.slideshare.net/11N2095/2012a411n2095

 

要約すると、ゴダンは1842年にフーリエの勉強を始め、実際にファランステールを建設しようとしたらしいが、フーリエが考えた農業を基調とした協同体では今の時代に合わないからと、工業を中心にした協同体を想定し、さらに複雑すぎるフーリエの共同生活の関係を修正し、家族中心の(だからこそファミリステールという名前になったのだろうが)連携を意識して建設したとのこと。そしてファミリステールは、19世紀に同じような社会主義者たちが実験した建築の中では最も成功した例らしい。約900人の労働者とその家族の約1200人をうまいこと納めていたとか。しかもフーリエの理念を放棄したわけではなく、貧富による部屋区分が起こらないように部屋割りが工夫されていたりと、ちゃんとした実業家が真面目に作ればユートピアは実現するのかもしれない……。

ちなみにゴダンは1858年からおよそ20年かけて、フランスから北東に200km離れたギーズという都市でファミリステールの建設を行った(参照:白承冠、2010、「ゴダンのファミリステールのオリジナリティとその建築・都市史的特性」日本建築学会計画系論文集 第75巻、https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/75/654/75_654_2039/_pdf)ので、やはり時間はかかるみたいだ。

さて、ファミリステールの話もそこそこに(面白かったのでつい調べてしまった)、本題に……は戻らずに、ファランステールの1日を紹介して、今回は終了としよう(さすがに疲れた)。

 

ファランジュでのせいかつ■

〜六月のリュカ(貧民)の日課〜

3:30 起床、準備

4:00 厩舎集団での就業(セアンス)

5:00 庭園師集団での就業

7:00 朝食

7:30 草刈人集団での就業

9:30 天幕のもとでの野菜栽培者集団での就業

11:00 牛小屋系列での就業

13:00 昼飯

14:00 森系列での就業

16:00 製造業(マニファクチュール)集団での就業

18:00 灌漑系列での就業

20:00 情念取引所(ブールス)へ

20:30 夕食

21:00 楽しい交わり

22:00 就寝

 

「うげえ…なんて細かいんだ。寝る時間全然ねえじゃねえか!」って思ったそこのアナタ、さては調和人ではないな?貧富の差があっても、ファランジュに住まえば貧富の差は関係なく調和人として労働する、しかも魅力的で快楽を伴う労働をするのだ。そして「調和人たちはごくわずかしか眠らない」(P.503)のだ。細かな就業の変化、および巧みな健康法が、彼らが労働で疲れ切ったりなんかしない習慣を身につけさせる!では次に金持ちのスケジュールを見てみようではないか。

 

ファランジュでのせいかつ part2■

〜夏のモンドール(金持ち)の日課〜

午後10時半から午前3時まで睡眠

3:30 起床、身支度

4:00 中庭で朝礼式、前夜の報告(chronique de nuit)

4:30 起き抜けの食事 délité つまり、産業パレードへと続く第一回目の食事

5:30 狩猟集団での就業

7:00 魚釣集団での就業

8:00 朝食、おしゃべり

9:00 天幕下の耕作集団での就業

10:00 ミサへの出席

10:30 雉子飼育場集団での就業

11:30 図書館での就業

13:00 昼飯

14:30 冷室集団での就業

16:00 外国産植物集団での就業

17:00 養魚池集団での就業

18:00 田園での軽食

18:30 メリノ羊集団での就業

20:00 情念取引所へ

21:00 夕食、つまり第五回目の食事

21:30 中庭での美術、演奏会、舞踏、演劇、歓迎会

22:30 就寝

 

……ここまで書いてものすごく疲れた。なんでだろう、ものすごく疲れた(2回目)。ほぼ日刊みたいになってるけど、しばらく更新頻度は下がります、っていうか下げます(死にそう)。誰か私が狂いそうになったらビンタして起こしてください……。

 

 

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

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四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

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