しぶさわ忍法帖

しぶさわレーニン丸のネタ帳です。

フーリエのエロティシズム断想——フェチと婚姻について

最近、自民党今井絵理子議員の不倫騒動により、支持率低下が叫ばれる安倍政権にさらなる追い打ちをかけるのではないかという疑念が持たれている。昔から、こうした不倫問題が後を絶たない日本の政治だが、そうした不倫問題の根本的な解決策を見つけた人物が過去に存在した、と言ったらどう感じるだろうか。来たるべき政治システムに向けて、こうした過去の思想から学ぶことは決して無益ではないだろう。

 

……とまあ、それっぽいことを書いてみましたが、このブログで政治的なものについて触れることはないので、今読んだものは読み飛ばしてもらってオッケーです。ぶっちゃけ導入部でこんなこと書いただけなので、相変わらずフーリエについて書いていきます。

 

でもまあ、冒頭部で触れた不倫問題の解決策を見つけた、というのはあながち間違いではなくて、今回寄り道で触れるのは、まさに「フーリエのエロティシズム」についてです。前回の記事の末尾に、エロティシズムについて少し触れた箇所があったのですが、少し調べてみました。

 

やはりフーリエはエロティシズムを自身の思想に織り込んだ最初の人間かもしれません。たとえば巌谷國士は、次のように言います。

 

フーリエがその処女作『四運動の理論』のなかで、「情念引力」の科学をはじめて設定したとき……不可視の力の観念にまつわるすべての素朴な神話を包括し、ニュートンによって機械化、数学化された引力のイメージに、その本来のエロス的内実を復活させたのだと言うことができる。(巌谷國士「萬有引力考――宇宙論的エロティスム」『ユリイカ青土社1971、P.64)

 

ニュートンのリンゴの逸話というのは有名ですが、実はリンゴにちなんだ逸話はフーリエにもあります。

 

1798年、パリへ行商に来ていた貧乏商人のシャルル・フーリエが、高名な料理哲学者ブリヤ - サヴァランと食事をともにした際、そのデザートとして供されたのが、一個の貧弱な林檎であった。その林檎の値段を教えられたとき、当時26歳であったフーリエの脳裏には、ある天才的な発見の胚種が芽生えたという。(同、PP. 55-6)

 

サヴァランについても第二回でも触れましたが、意外な接点が見つかりました。

 

shibuleni.hatenablog.com

 

ともあれ、フーリエはこうした引力にまつわるエロティシズムの第一発見者だということは間違いないようです。ここでやっと本題です。フーリエの思想のどういう部分が不倫騒動を一気に解決する秘策になるのか。それはフーリエの描くユートピアについて知ることが肝要になります。

 

まず、フーリエユートピアは、権力が「人を生かす」ために、人民に尽力する世界です。三原智子は次のように述べます。

 

理想社会「ハーモニー」では、権力が、「すべての年齢にこの快楽を保障する」。階級や年齢の差を越えて、すべての人間がこの営みに参加し、あらゆる組み合わせが許される。80歳の女性がハイティーンの少年を恋人にすることも、ロシアの大公女がその女奴隷に恋することも、禁じられるどころかむしろ奨励される。許されないのは、小児性愛だけである。(三原智子シャルル・フーリエの理想社会における権力構造」群馬大学教育学部紀要 人文・社会学編』57号、2008、P. 117)

つまり、今でいうところのショタコンも、同性愛も、次に触れますがあらゆる性的倒錯が社会的に肯定される社会なのです。なぜか小児性愛だけは許されてませんが。

 

ハイヒールマニアやその他の酔狂の愛好者は、国家によって、一般の恋人たちと同様(あるいはそれ以上に)手厚く保護される。保護された多彩な性愛は、種類ごとに細分される。(同、P. 117)

 

つまるところ靴フェチも、他の性愛が肯定される社会。素晴らしいのかおぞましいのかわかりませんが、ともかくぶっ飛んでることだけは分かります。さて、問題はここからです。

 

ハーモニーでは、各自は性愛について、自分の好みと自分の履歴を官僚に告白しなければならない。すべての欲望をさらけだし、かつ、過去のすべての行為を明らかにしなければならないのだ。権力側は、告白にもとづき、当該人物についてのデータを分析し、計算し、その結果に応じて、ふさわしいパートナーを紹介する。そのデータは、個々人の管理に使われ、いつでも、どこでも、参照可能なように準備される。(同、PP. 118-9)

 

ハーモニー社会は確かにすべてが許されるユートピアである。しかし、それは、すべてが白日のもとにさらされている、という条件のもとなのである。社会全体が巨大な私的領域となったため、公権力が私的プライバシーを侵すという恐れが失われた。むしろ、権力の介入によってはじめて、性=生という個人の生命にかかわる領域が保障され、豊かなものとなるとみなされるのである。(同、P. 121)

そう、フーリエの社会ではプライバシーが存在しないのです。そんなもの必要ない。各自が隠すことなく好きな行為に勤しめる社会。あらゆる欲望が原動力となる社会こそ健全だ、というふうに考えていたのです。ただ、隠されて初めて生まれる欲望みたいなものが消滅する恐れがありますが。

さて、ここでお気づきになられた方もいるかもしれませんが、フーリエの社会は、各人が何を欲し、もっと言えば誰とまぐわっているか、全て筒抜けの社会なのです。フーリエが目指したものは統一。ドゥブーの言葉を借りると、「フーリエにおいて鍵となるのは、……集団=群の感情的生に関する知識」*1。そう、集団のあらゆる意味での統一。全ての人が全ての人と婚姻関係にある、「全婚」なのです。フーリエはサドというフランスの文学者の小説を読んでいたことは知られていますが、まさに彼は、サドの描く酒池肉林の世界を社会に実用化させようとしていた人物なのでした。

 

快楽の儀式を無限に多様化させること、そして人間同士の結びつきを無限に複数化させること――その極限的な様態として提示されたものこそが、統一種すなわち乱交の最高形態たる、「全婚」のイメージであると言ってよいかもしれないのだ。(巌谷 P. 71)

 

単婚(モノガミー)から多婚(ポリガミー)へ、さらには乱交(オルジガミー)から全婚(オムジガミー)へ。つまり一対一から一対多数へ、さらに多数対多数から全員で、という形で婚姻形態を推し進めようとしていたのです。

 

結論。不倫問題が起きるのは、婚姻が一対一の関係だから起こるのであって、それ以外なら問題にそもそもならない。というのが、フーリエの思想を通じてわかった(?)ことでした。

 

 

フーリエのユートピア

フーリエのユートピア

 

 

サド、フーリエ、ロヨラ

サド、フーリエ、ロヨラ

 

 

*1:シモーヌ・ドゥブー『フーリエユートピア今村仁司監訳、1993、平凡社、P.78

シャルル・フーリエ『産業的協同社会的新世界』読書メモ(4)

 

shibuleni.hatenablog.com

 

前回、学者とか芸術家がちゃんとした評価をされる「正立した世界」について触れたので、今回は協同社会に関する研究が全然されてこなかった理由について説明していきたいと思います。

ちなみに、フーリエによれば、彼の世界(「正立した世界」)では、学者や芸術家が欲しいもの(名声とか富とか)が、「転倒した世界」の20倍、いや100倍ものの莫大な富が一気に手に入れることができる、と述べていました。相変わらず数字が馬鹿でかい。

 

さて本題。なぜ、協同社会に関する研究がなされてこなかったのか。それは、これまで協同社会に関する研究が、ひとつの偏見に晒されてきたからだ、ということを言います。たとえばフーリエは、偏見の例として、

 

三ないし四世帯を家庭的共同体に結合すれば、一週間後にはきっと、とりわけ女房どもの間で反目が現われる。それが三十ないし四十にいたっては、さらには三百や四百にいたってはなおさらである。(P.442)

 

という話を挙げます。つまり、何人かの家庭を共同体にぶち込めば、女房がキレるだろう、しかもそれが30〜40家庭、300〜400家庭ともなればなおさらキレるだろう、ということですね。しかしフーリエは負けません。こんなものはとんでもない理屈だ、と。フーリエはどういう風に考えるか。

 

もし神が節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を望んでいるのであれば、神は出来る限り多数の世帯からなる協同世界についてしか考察しえなかったであろうから。(P.442)

 

……つまり、神が節約とか統制というものを望んでいるのであれば、できるだけ大多数の人が一同に暮らすような協同社会(つまり家)についてしか考えなかっただろう、ということが言いたいのだと思います。一人暮らしよりも実家暮らしの方が経済的だし、家族と一緒に住んでいれば、ご飯を作るにしても一気に買い物や料理ができてシステマチックである、ということでしょう。そういう社会しか神は想像できなかったのだろう、ということは推測できますが、これがどう反論になっているのかは正直ここだけだと分かりづらい。ともかくフーリエの説を続けていきますと、

 

だから、三世帯、ないし三十世帯においては小規模だったのでうまくいかなかったということは、非常に多くの世帯(三百とか四百)においては成功する兆しであったのだ。それには、神に望まれており、また協同社会機構への神の顕現である「引力」(アトラクシオン)の要求にかなっている自然的協同社会の理論もしくは方法を、前もって発見すればよかったのだ。神は引力によって物質界を司っている。もし神が、社会の統轄のために別の手段を用いているとすれば、神の体系のなかには、行動の統一性(ユニテ)ではなくて、二元性(デュブリシテ)が存在していることになるであろう。(P.442-3)

 

オッケー、少しずつ読んでいきましょう。もうすでに頭が混乱してきましたが、負けません。3〜4、30〜40世帯という少ない世帯ではうまくいかったということは、300〜400では成功する兆しなのだ、というところ。300〜400という数ですが、イメージ的には、自分が住んでる地域(町とか村)の一区画もろもろの家庭が集合する、というようなものでしょうか。ともあれ、なぜ成功する兆しなのか。普通に考えれば、どうしても隣近所の家庭と家族ぐるみの付き合いができる、というだけでも今の時代であれば凄いことのように感じますね。まあ30〜40だとごく少数の地域(具体的には言いませんが……)では可能かもしれません。ともあれ、現代では実践できる/できている地域というのはごく稀なケースなのは間違いないでしょう。

寄り道が長くなりましたが、成功する兆しになる理由について。それは神の要求に従った自然的協同社会の理論または方法を、前もって見つければよかったのだ! という理由になっていない理由をフーリエは挙げます。何が理由になっていないって、神による云々ではなく、「前もって発見する」というところにあります。「偏見にさらされてるから、偏見を覆せる理由を前もって見つけておけば、偏見は直せる」というのは、少なくとも偏見がまかり通っているような状況では、ただちに偏見が修正できるとは限らないでしょう。それがましてやフーリエのように直情的に、病的なまでに数字に拘りながら理由を挙げようとするとなると、その偏見を後押ししかねない部分もあることでしょう。

ともあれ、フーリエによれば神は引力というパワーによって物質界を支配し、統一的な社会を実現しようとしていると言います。さきほど挙げた「節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を〜」の件は、ここになってようやく真意が見えてきた気がします。あくまで推測ですが。

つまり、

①神が節倹(エコノミー)と機制(メカニーク)を望んでいるのであれば、大多数の世帯からなる協同社会を考察していただろう(フーリエの希望通りの社会)

②しかし現在そうではないため、むしろ豪遊やバラバラな個人主義を後押しするような社会であることが推奨されている(現状の社会)

③資本主義というものは、いかに金を使わせ、いかに個人単位まで金を落とさせるかということしか考えていないじゃないか(筆者の推測)

という批判がフーリエにはあったのではないか。こうしてみると結構的を射た考えなのかもしれません。

 神の真意は資本主義ではない。これこそがフーリエが強調したい部分かもしれません。ではなぜ資本主義が勃興してきたのかについては、フーリエは触れてくれません。しかし、少なくとも資本主義の悲惨な現実をフーリエは目の当たりにしてきました。商人の息子として、親に社会の汚い部分を見せつけられて、嫌気が差したのは間違いないでしょう。この、資本主義社会の闇については次回触れることにして、今は神が引力による統制を目指していたという点に戻りましょう。

これも仮定の話ですが、神がもしも引力ではない別の手段によって社会を統制しているとすると、そこには二元性が存在することになるとフーリエは説きます。

引力は重要です。フーリエにとって引力は、なにも自然科学的な意味での引力だけではなく、物質間にも作用する力だからです(フーリエフェティシズムの祖とした論文も確かあったはずです、次回までに調べます)。今の社会でも、「魅力的な人物」とか、「人を惹きつける力」といった言い回しがありますね。その根本はフーリエにあったのかもしれません。引力は人と人、人と労働、など、全てを包括する巨大なシステムです。これ以外に神が社会統制で用いる手段は存在しないだろう、とまでフーリエは考えていたといっても過言ではないかもしれません。

 

ヒューマン・アクション―人間行為の経済学

ヒューマン・アクション―人間行為の経済学

 

 フーリエとはまったく関係ありませんが、読みたい本の一つをはっつけておきます。社会主義経済の矛盾について書いた本(以前教授に教えて貰った本)らしいのですが高すぎて手が出ません。お兄さんお姉さん助けて!

 

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス: 生涯とその思想

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス: 生涯とその思想

 

 

<平等村>試論——S.グリマーのイデオロギーについて

0. 前書き

ここでは、My Little Pony(以下、MLP)のシーズン5(以下、S5)のエピソード1および2(それぞれ以下E1、E2)における、平等村*1を支配していたスターライトグリマー(以下、グリマー)のイデオロギーについて説明する。平等村におけるグリマーの立ち振る舞いから、多くの視聴者は社会主義を想起*2したり、偽善的な独裁者といったイメージを持ったり*3していたが、果たしてグリマーの思想の中核とは何だったのかについて明らかにしたものは、少なくとも筆者が確認した限り、確認されなかった。そのため、この記事では、平等村におけるグリマーの行動および平等村の住民のグリマーへの反応から、グリマーの思想および平等村のイデオロギー的構造について明らかにする。

1. 平等村におけるグリマーの振る舞いについて

 まずは、平等村におけるグリマーの振る舞いについて見ていこう。そもそも、S5E1-2におけるグリマーの発言の要旨は、以下の2つに大別される。

  1.  個性(=キューティーマーク)を捨てることで、皆が平等になる
  2. 個性を持つことは、差別の原因となるため、危険である(=平等になれない)

しかし、グリマーの行動レベルで見てみると、フラッターシャイによって、実は彼女自身がキューティーマークを有しており、それを隠蔽することによって平等であると見せかけていただけだと明かされた。そして物語の結末として、グリマーは平等村の住民の前でその事実を暴露された結果、反乱が起き、村から放逐されたのだった。グリマーの説く平等とは、あくまで他者を抑圧するために説かれるものであり、自らを特権的な立場に留めておくための手段に過ぎなかったことが住民たちが理解したからだ。

 このことから普通私たちは、真の平等とはお互いの個性(=キューティーマーク)を尊重しあえることなのだ、というメッセージを、S5E1-2から読み取る。共産主義的な思想を持つとされたグリマー*4が敗北し、自由主義的な思想を持つメーン6たちが勝利する。実に自由主義を標榜するアメリカ的な結末だ、と考える視聴者もいるかもしれない。だが、彼女は実はまったく共産主義的な思想を持ってはいない。そもそも平等=共産主義とはもはやかなり古い発想であるからだ*5

 したがって、立てられるべき問いは次のようなものになる。なぜグリマーは平等思想を維持できていたのか、だ。分析に当たって見られるべき次元は二つである。一つは内政の次元、二つにイデオロギーの次元。結論を先取りして言えば、スターライトグリマーの思想とはスターリン主義であることを明らかにしていく。

2. 内政の次元

 まず重要なのは内政という観点である。この観点において、グリマーはほとんどスターリン的手腕を発揮している。たとえばグリマーの、S5E1においてトワイライトたちを出迎えたあとの独白シーンに注目してみよう。

まあ、このことは間違いなく私たちの小さなコミュニティの景気付けになることでしょう。エクエストリアの残りのポニーたちが、私たちの村に加入するためにプリンセスが彼女のキューティーマークを諦めたと知ったら、彼らはついに私たちが達成しようとしていることを理解してくれるでしょうね。(http://mlp.wikia.com/wiki/Transcripts/The_Cutie_Map_-_Part_1より。邦訳は筆者。)

 

ここで彼女は大いなる政治的野心を覗かせていることから、彼女の立場はスターリンの採った一国社会主義の立場をも思わせる。経済基盤については深くは掘り下げないが、少なくとも彼女にとってエクエストリアとは、追いつき、追い越すべき対象なのであって、そしてそこは彼女の思想を広めるためのうってつけの場所なのだ。たとえエクエストリアにおいて平等が実現されていようといまいと、グリマーにとっては問題にならない。なぜなら彼女の考える平等とはまったく仮象のものだからだ。ここで、『ロシア革命』におけるE. H. カーのスターリンに対する分析を引用してみよう。

彼〔=スターリン〕は、彼の意志を妨害する人々に対して残酷で、恨み深く、あるいは憤激や反感をかきたてたりした。彼のマルクス主義社会主義への傾倒は、ほんの表面的なものに過ぎなかった。社会主義は、客観的経済状況から、そして資本主義の抑圧的支配に対する階級意識をもった労働者の反乱から生じたものではなかった。それは、上から、恣意的に力によって課せられるべきものなのであった。スターリンの大衆への態度は、侮蔑的であった。彼は自由と平等に無関心であった。彼は、ソ連以外のいかなる国での革命の展望にも冷笑的であった。(『ロシア革命』、2000年、岩波現代文庫、P.243)

したがって、彼女が内政に注力するのはまったくもってスターリンのそれと同等の理由である。住民同士に監視させ密告させあったり、密告された住民を反乱分子として監禁部屋に閉じ込め、村のスローガンを何度も浴びせるように聞かせたりするのも、過剰に異論や反発を恐れるグリマーの疑心暗鬼の所業である。もちろんスターリンほど残酷ではないが、いわゆる少女向けのアニメで取られる手段としてはかなり異様なものであることは間違いない。

3. イデオロギー的次元

 次に、イデオロギー的次元からグリマーの思想を見てみよう。これも内政の問題と大きく関わっているが、ここで主に注目するのは住民たちの振る舞いである。グリマーの説く「平等」に疑問を抱きながらも、あくまでそれを信仰しているように行動する(ないしはそう装う)のはなぜか。それを解き明かすのがイデオロギー的な次元なのだ。住民たちが平等思想を無謬なものと見なし、ほとんど法律のごとく機能しているのは、平等思想がイデオロギーの次元にまで高められていることの証左だ。だが、それが見せかけであることもまた事実である。私たちはよほど鈍感でない限り、それが見せかけの平等であることを知っている(だからこそフラッターシャイが鈍感さをピンキーパイによって咎められている)。だが、その見せかけこそが重要なのだ。この見せかけの平等こそが住民の心を束縛するのである。スラヴォイ・ジジェクの『イデオロギーの崇高な対象』から、同じくスターリニズムについての分析を引用してみよう。

〔政治の〕舞台裏では野蛮な党派闘争が繰り広げられていることは誰もが知っている。にもかかわらず、どんな犠牲を払っても、<党>の統一という見かけは保持しなければならない。支配的イデオロギーを誰も信じてはいない。誰もがそこからシニカルな距離を保っている。そして誰も信じていないということを誰もが知っている。それでもなお、人びとは情熱を傾けて社会主義を建設しており、<党>を支持している、という見かけを、何が何でも保持しなければならないのである。(『イデオロギーの崇高な対象』、2015年、ちくま文庫、PP.366-7)

<党>の統一をグリマーに、野蛮な党派闘争は彼女が行うキューティーマークを剥がす儀式に、社会主義を平等思想に置き換えて読んでみると、かなり的を得た指摘ではないだろうか。実際は平等ではないことを誰もが知っておきながら、それにあえて従う。このことについて、続けて引用しよう。

この見かけは本質的なものである。もし壊れると――たとえば誰かが「王様は裸だ」(誰も支配的イデオロギーを本気では信じていない)という明白な事実を公に口に出したら、ある意味でシステム全体が崩壊する。なぜか。いいかえると、もし誰もが「王様は裸だ」ということを知っていて、他のみんなが全員それを知っているということを誰もが知っていたとしたら、いったい何のために、どんな犠牲を払っても見かけを保持しなければならないのか。もちろん一貫した答えがある。<大文字の他者>〔のため〕だ。(同書、P.367)

 見せかけだけの平等(それはグリマーが村長という立場にいるという客観的レベルの話から、明らかに権力を手中に収めている様子が描写されている主観的レベルの話までさまざまなことが言える)に過ぎないはずのものが、人々の心を束縛し、他人よりも優れるようになること(=キューティーマークを持つこと)への過剰なまでの恐怖感を抱かせるようになる理由がこれである。<大文字の他者>とは精神分析の用語だが、やはり法律や規則といったものとしてここでは理解して良い。そして平等村で法律として機能しているのはグリマー自身である。平等思想がまるで法律のように振る舞いかつそれが承認され、住民たちの行動を制限しているのは、<大文字の他者>つまりイデオロギーの次元にまで高められているためなのだ。たとえばパーティー・フェイバーが監禁部屋へ自ら志願し収容された時に、独り言でキューティーマークを取り戻したいということを嘆き(グリマーに聞こえもしないのに)、メーン6の策略に全く同意しないどころかグリマーの思想を受け入れるのは時間の問題だと言った時には、まさに彼が平等思想を身も心も実現していなければならないという強迫的観念に従っているからなのだ。 

4. 小結論

 ひとまず平等村についての試論をここで終えておこう。より入念な分析は今後機会があれば行おうかと思う。とにかくここで指摘したかったのは、グリマーはコミュニストでは全くないということだ。彼女は二つの理由において、社会主義を信じていないスターリンに比されるべき存在なのである。一つ目は内政という点において、彼女の振る舞いとその動機についての分析を通じて。二つ目が平等思想のイデオロギー機能において、いかに村全体に浸透しているかについての住民たちの行動の分析を通じて。ぶっちゃけて言えば、グリマーを共産おばさんというクッソ卑劣な名称で呼ばれることがなんか気に食わなかったのだ。まあともかく、MLPもこの程度までは分析できるのではないか、という一つの指標になれば幸いである。

 

 

ロシア革命―レーニンからスターリンへ、1917‐1929年 (岩波現代文庫)

ロシア革命―レーニンからスターリンへ、1917‐1929年 (岩波現代文庫)

 

言わずと知れた名著。この本に限らずE.H.カーの作品は良著が多い。 

 

イデオロギーの崇高な対象 (河出文庫)

イデオロギーの崇高な対象 (河出文庫)

 

 現代思想の生ける人気者ジジェクのデビュー作。ぶっちゃけ難解なので下の本から入ることをオススメする。

 

ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!

 

 <大文字の他者>とか、精神分析について一通り知れる本。映画を精神分析でぶった切る面白い本。

 

 

自由の問題 (岩波新書 青版 344)

自由の問題 (岩波新書 青版 344)

 

 めっちゃ安いから買って読んだ方がいい。1959年の本だが、当時の時代状況を鑑みても古びない隠れた名著だと思う。

*1:英語表記ではOur Town、つまり直訳すると「私たちの町」という名称になるが、一般に言われている呼称として、ここでは「平等村」という名称を与えることにした。

*2:たとえばhttp://trixietales.blog.fc2.com/blog-entry-572.htmlを参照。また、ワーミー(Whammy)の「Analysis is Magic」における分析でも、やはり「スターライトグリマーはコミュニストか?」という問いが立てられている(https://analysisismagic.wordpress.com/2015/04/11/is-starlight-glimmer-a-communist/)。ただし、後者の結論としてはグリマーはコミュニストではないという分析がなされている。その理由は二つ挙げられている。一つ目に、マルクスの「政治的解放」批判の点から、グリマーの思想がホッブズ的な「万人の万人に対する戦い」に基づくものであるということ、そして二つ目にマルクスの「疎外労働」の点から、むしろメーン6やシュガーベルたちの思想の方がマルクス主義的立場に近いということを明らかにしていた。およそMLPにおける経済的な分析というものは意味をなさないが、これらの観点からであれば、グリマーがマルクス主義的な原理にかなり背いているということは証明できると思われる。

*3: https://www.fimfiction.net/group/207039/starlight-glimmers-dictatorshipを参照。

*4:たとえば日本におけるグリマーのあだ名の一つに「共産おばさん」というものがある。

*5:たとえば岡本清一の『自由の問題』(岩波新書、1959年)を参照。

シャルル・フーリエ『産業的協同社会的新世界』読書メモ(3)余談

しぶさわです。

いきなりですが、今回はこんな画像を紹介します。

 

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(↑『世界の名著42』の巻末より)

ちょっと見切れてますが、うまいことコピーできなかったので許してください。

説明すると、コレはフーリエが1808年、彼が36歳にして匿名で出した『四運動の理論』(正式には『四運動および一般的運命の理論』)の第3版(1846年)に掲載された図です(日本語訳は田中正人氏による)。坂本慶一氏によれば、この図は人間社会ならびに宇宙の万物が統一と調和の方向を辿ることを表しているもので、当時のフーリエは、人類がまだ図中の第一局面のなかばを過ぎただけに過ぎないと考えていたらしい。そして、人類はやがて壊乱と混沌を脱して、上昇的調和(第二局面)の時代に移行する。しかしさしあたり、人類は第一局面の8つの時代を経過しなければならないのだという。それはつまり、

  • 産業発生前期
    (K)無人の混沌状態
    (1)原始時代、いわゆるエデン
    (2)野蛮時代または無気力
  • 分裂・虚偽・矛盾の産業期
    (3)家長時代、中規模産業
    (4)未開時代、中規模産業
    (5)文明時代、大規模産業
  • 協同社会的・真実的・魅力的産業期
    (6)保証主義時代、半協同社会
    (7)連合主義時代、単純協同社会
    (8)調和主義時代、複合協同社会

の8つの時代だ。そろそろ読者の頭がこんがらがってきたことだろう。大丈夫、私もこんがらがっている。とりあえず、Kとはフーリエがあいまいな時代を示す場合に用いる記号らしく、これまで「産業的〜」をお読みになった方なら、当時のフランスは(5)の時代に位置付けられるということが分かるだろう(フーリエが文明時代を敵視してることからも推測がつく)。したがって、フーリエは来るべき協同社会的・真実的・魅力的産業期を迎えるために、ファランジュを建設しようとしていたことが分かるのだ!

もういい加減疲れてきたので、息抜きに「じゃあ実際のところファランジュってどんな社会なの?」と思われる読者もいることだろうから、ファランジュの設計について少し触れてみよう(今回はもう本文に触れるのをここで断念した)。坂本慶一氏によると、ファランジュとはもともと古代マケドニア軍の方陣ファランクスからとった名前であり、そこは最小400人、最大2000人、平均1620人の老若男女がいて、一人当たり一ヘクタールの農地を持った、生産と消費にわたる生活協同体であるという。そしてファランジュの住民は、ファランステールと呼ばれる広大な共同宿舎で生活するのだという(今でいうシェアハウスみたいなもの?)。ファランジュについてはわかった(?)ので、今度はファランステールについて見てみよう。ちなみにファランジュは「住民の12種の情念がことごとく満足されるよう、生産と消費の全般にわたるこまかい配慮がなされている」(P.77)らしいのだがもう知らん。

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(↑P.559より)

次にファランステールについて。まず、ファランステールは4階建てで、鳥が翼を広げたような形をしている。内部は冷暖房完備の快適な居間や寝室、共同の食堂、娯楽室、応接室、集会室などが完備され、中庭には多くの樹木や噴水、池、花壇などが設けられている。ファランステールの両側には、地下道で結ばれた教会、情念取引所(労働や娯楽のための寄合いを仲介する場所らしい)、劇場、郵便局などの公共施設が配置されており、またファランステールの前には、広場を挟んで農業経営上の建物が整然と配置されているのだという(以上まで、「ユートピア社会主義の思想家たち」『世界の名著42』中公バックス,P.77参照)。

 

余談だが、フーリエの実際には作れなかったファランステールと、フーリエに影響を受け(てしまっ)たジャン=バチスト・アンドレ・ゴダン(1817-1888)が実際に作ってしまったファミリステールという建物の比較を紹介したサイトがある。なぜ実際に作ったし。

https://www.slideshare.net/11N2095/2012a411n2095

 

要約すると、ゴダンは1842年にフーリエの勉強を始め、実際にファランステールを建設しようとしたらしいが、フーリエが考えた農業を基調とした協同体では今の時代に合わないからと、工業を中心にした協同体を想定し、さらに複雑すぎるフーリエの共同生活の関係を修正し、家族中心の(だからこそファミリステールという名前になったのだろうが)連携を意識して建設したとのこと。そしてファミリステールは、19世紀に同じような社会主義者たちが実験した建築の中では最も成功した例らしい。約900人の労働者とその家族の約1200人をうまいこと納めていたとか。しかもフーリエの理念を放棄したわけではなく、貧富による部屋区分が起こらないように部屋割りが工夫されていたりと、ちゃんとした実業家が真面目に作ればユートピアは実現するのかもしれない……。

ちなみにゴダンは1858年からおよそ20年かけて、フランスから北東に200km離れたギーズという都市でファミリステールの建設を行った(参照:白承冠、2010、「ゴダンのファミリステールのオリジナリティとその建築・都市史的特性」日本建築学会計画系論文集 第75巻、https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/75/654/75_654_2039/_pdf)ので、やはり時間はかかるみたいだ。

さて、ファミリステールの話もそこそこに(面白かったのでつい調べてしまった)、本題に……は戻らずに、ファランステールの1日を紹介して、今回は終了としよう(さすがに疲れた)。

 

ファランジュでのせいかつ■

〜六月のリュカ(貧民)の日課〜

3:30 起床、準備

4:00 厩舎集団での就業(セアンス)

5:00 庭園師集団での就業

7:00 朝食

7:30 草刈人集団での就業

9:30 天幕のもとでの野菜栽培者集団での就業

11:00 牛小屋系列での就業

13:00 昼飯

14:00 森系列での就業

16:00 製造業(マニファクチュール)集団での就業

18:00 灌漑系列での就業

20:00 情念取引所(ブールス)へ

20:30 夕食

21:00 楽しい交わり

22:00 就寝

 

「うげえ…なんて細かいんだ。寝る時間全然ねえじゃねえか!」って思ったそこのアナタ、さては調和人ではないな?貧富の差があっても、ファランジュに住まえば貧富の差は関係なく調和人として労働する、しかも魅力的で快楽を伴う労働をするのだ。そして「調和人たちはごくわずかしか眠らない」(P.503)のだ。細かな就業の変化、および巧みな健康法が、彼らが労働で疲れ切ったりなんかしない習慣を身につけさせる!では次に金持ちのスケジュールを見てみようではないか。

 

ファランジュでのせいかつ part2■

〜夏のモンドール(金持ち)の日課〜

午後10時半から午前3時まで睡眠

3:30 起床、身支度

4:00 中庭で朝礼式、前夜の報告(chronique de nuit)

4:30 起き抜けの食事 délité つまり、産業パレードへと続く第一回目の食事

5:30 狩猟集団での就業

7:00 魚釣集団での就業

8:00 朝食、おしゃべり

9:00 天幕下の耕作集団での就業

10:00 ミサへの出席

10:30 雉子飼育場集団での就業

11:30 図書館での就業

13:00 昼飯

14:30 冷室集団での就業

16:00 外国産植物集団での就業

17:00 養魚池集団での就業

18:00 田園での軽食

18:30 メリノ羊集団での就業

20:00 情念取引所へ

21:00 夕食、つまり第五回目の食事

21:30 中庭での美術、演奏会、舞踏、演劇、歓迎会

22:30 就寝

 

……ここまで書いてものすごく疲れた。なんでだろう、ものすごく疲れた(2回目)。ほぼ日刊みたいになってるけど、しばらく更新頻度は下がります、っていうか下げます(死にそう)。誰か私が狂いそうになったらビンタして起こしてください……。

 

 

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

 

 

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

 

 

 

シャルル・フーリエ『産業的協同社会的新世界』読書メモ(2)

前回の記事が短すぎたので今回はちょっと多めに書きます。


shibuleni.hatenablog.com

 

【注意】

訳文というよりもフーリエ自身の文章が(たぶん)悪いので、引用という形をとりますが、正確な引用ではないことを先に明記しておきます。とにかく読みやすさ重視で。

 

産業的新世界という題名は、とりわけ産業的魅力を創出するという特性を備えた、このすぐれた協同社会的秩序を最も正確に示すものである。この新世界では、遊び人でも、気取った主婦ですら、冬でも夏でも朝四時から起き出して熱心に有益な労働に従事する、それもたとえば庭園や家禽飼育場の世話に、また家事や製造所やその他、文明機構が富裕階級すべてに嫌悪感を抱かせるような職務であったとしても。(『世界の名著42 オウエン サン・シモン フーリエ』中公バックス,P.441)

 

つまりまあ、「私(フーリエ)が作るソシエテール(協同社会)では大丈夫!安心してね!^^*」っていうことを書きたいがための文章。

 

それにしても、フーリエが描く世界の住民はえらく早起きである。

中公バックス版の付録として付いている「黙示録としての社会主義」(野地洋行著)にはこんなことが書いてある。

 

フーリエは彼の共同体では労働は快楽になるという。それだけではない。人間は本来移り気なものだから一つの仕事を継続するのは二時間ずつでいいと彼はいう。まさに、朝に魚を釣り、夕べに畑を耕すというウルトラ・ロマンチシズムといわれる世界である。さらに人々は一緒に労働する仲間を選ぶことができ、こうしてできたチームはみずからの労働の主人として他のチームに対する対抗意識に燃え、秘策を練り、その労働に情熱をさえ感ずるという。(「黙示録としての社会主義」P.3)

 

快楽としての労働。社会主義という過去の遺物が本来見据えていたのは、議会で多数をとることでもなければ生産手段の社会化のことでもなく、ましてや暴力革命のことでもなかった。ファランジュを作ろうとしたフーリエや、幼稚園の創始者としてのオウエン、現代風に言えば某ワ●ミ的な経営思想を持っていたサン・シモンは、人間の幸福と労働の一致を目指していたと言っても過言ではない。……だいぶ脇道に逸れたのでフーリエに話を戻そう。

 

このような労働のすべては、きわめて未知の配列――「情念系列」(série passionnée)あるいは「対照的集団の系列」――の作用によって魅力的なものになるであろう。これは、あらゆる情念が目指す機構、自然の意にかなった唯一の秩序である。もしも産業が情念系列のなかで営まれるのを目にしない限り、未開人たちはけっして産業を採用することはありえない。(P.441-2)

 

これはさきほど挙げた野地氏が指摘しているところだ。つまり自チームの魅力と敵対チームの存在が労働をさらに快適なものにする。現代の労働は辛すぎるから、それに巻き込まれる前の人間のことを指す(フーリエは未開人と書いているが、おそらく当時の産業とフーリエの描く共同体という二つの選択肢を与えられた人間のことを指すのではないだろうか。そしてもちろん、辛い労働を選ぶよりは快適な労働を選ぶだろうというフーリエの確信がこもった箇所だ)のだろう。


情念系列という制度のもとでは、真理と正義との実践は富にいたる手段となる。そして、美食術のように、私たちの道徳によれば堕落していると思われている悪習の大部分〔筆者註=おそらく今風に言えば「飲む打つ買う」みたいな道楽全般を指すのだと思われる〕は、産業面での競争心を生じさせる手段となる。だから、美食術の洗練は、そこ〔フーリエが描く共同体〕では英知をうむ主動力として奨励されるのである。この体系と相反するのは虚言を通じて富に導き、英知を禁欲生活の地位におく文明機構であり、とくに後者を「転倒した世界」(monde à rebours)との異名がつき、前者のような協同社会状態は、真理と魅力的産業との使用のうちに築かれた、「正立した世界」(monde à droit sens)という異名が与えられるであろう。(P.442)

 

ここで美食術(ガストロノミー)が挙げられているのは面白い。フーリエが描くソシエテールでは、美味いものを食べることが重要なのだ。またしても脇道に逸れるが、美食術について少し触れてみよう。

 美食術という言葉を最初に使ったのはブリア=サヴァランという人物だ。彼は『美味礼讃』という本を書いた*1。その巻頭に置かれた有名な、「君が食べているものを言ってみたまえ。君がどんな人間であるかあててみせよう」、あるいは「人類の幸福にとって新しい料理の発見は星の発見よりも大きい」といったアフォリズムは、まさに「ただ食べる」だけではなく、「よりよく食べる」ことが重要かを謳っています。快楽と切り離された道楽はあり得ない。食に関するこうした名言や箴言はとても面白い。

 ……ともあれ、フーリエに戻るが、禁欲生活を強いるクソみたいな社会は「転倒した社会」、快楽を奨励する素晴らしい社会を「正立した社会」と呼んだ。まあ快楽を強いる社会が果たしてマトモな世界なのかは知りませんが。最後にもう一節だけ引用(紹介)して今回は終わりましょう。

 

とりわけ学者と芸術家にとっては、協同社会的制度は「新世界」であり「正立した世界」になるであろう。なぜなら、彼らの熱烈な願望の対象物を、彼らにとってはまさに茨の道であるような文明状態のなかで望みうるものの二十倍、百倍もの莫大な富を「正立した世界」の機構においては一挙に獲得することができるからである。〔なぜ文明の道が茨の道かというと〕彼らはそこでは、ありとあらゆる不愉快な思いをさせられ、あらゆる屈辱を蒙っているからだ。(P.442)

 

なるほど!(御用)学者と(御用)芸術家を重用する社会はなんか見たことがあるような気がしないでもないですが、立派な学問や革新的な芸術がちゃんと評価されお賃金をもらえる社会は素晴らしいかもしれませんね!まあ、あんまり変なことは書かないことにします。

 

美味礼讃

美味礼讃

 

 

 

悪食大全

悪食大全

 

 

 

なんか今回全体的に口調が変わりまくってますが、読むのに支障なければセーフってことで。

 

 

*1:正確な題は、『味覚の生理学、あるいは超絶的美味学の瞑想。文学や科学のもろもろの学会の会員たる一教授からパリの美食家にささげられた、理論と歴史と日常の問題を含む書』である(ロミ『悪食大全』高遠弘美訳,作品社,P.213-4参照。)。他にも、ジョゼフ・ベルシューという法官にして詩人、ジャーナリストでありかつ美食家でもあったという人物もまた、美食術という言葉を最初に使った一人である。

シャルル・フーリエ『産業的協同社会的新世界』読書メモ(1)

しぶさわです。

 

今回は空想的社会主義者として名高いシャルル・フーリエ(1772〜1837)という社会思想家の、

 

『産業的協同社会的新世界』という、タイトルからしてヤバい本を紹介します。読書メモ代わりなので、込み入った話はあんまりしません。ちなみに副題も含めると、『産業的協同社会的新世界、つまり、情念系列のうちに配分された、魅力的自然的産業の方法の発見』という長ったらしいタイトルになります。

そしてあえて一言でこの本をまとめるなら、「こういう社会共同体を作ればみんなハッピーになるよ」っていう手引書みたいなものです。

まあとりあえず、その序文から見ていきましょう。

 

序文
錯乱の兆候、転倒した世界

 

お、おう…(困惑)なんかすでに序文のタイトルだけでやばいにおいがプンプンしてますが、本文に入っていきましょう…

 

第一項
概説および予備的概念

金持ちとの結婚、遺産相続、散官につくといった運命のめぐりあわせによって収入を倍にしようとする願いほど、普遍的な願いはない。そして、各人みなの収入を、実質的価値において二倍どころか四倍に高める方法が見いだされたならば、こうした発見は、きっと、万人の目をひくに最も値するものであろう。(田中正人訳「産業的協同社会的新世界」『世界の名著42 オウエン サン・シモン フーリエ』中公バックス,P.441)

 

 もうなんか怪しさしかない書き出しですが、実際彼は一部の熱心な信者を除き、彼が活動していたパリでは嘲笑の的(「パレ・ロワイヤルの狂人」)でした。ファランジュという、1500人から2000人、理想は1620人で構成される農業共同体(彼によるといろいろな理論的背景はあるが割愛)を作ろうと出資者探しに明け暮れて死去した人物です。

フーリエは、産業が発達し、各人がバラバラになった社会で、再び人と人とを協力させるような関係を作らねばならないと奮起し、情念系列(人と人とを結びつける力)という概念を編み出し、人のあらゆる感情を理論的に秩序立てて(実際彼は「移り気概念」という、人は同じことをずっとしていると飽きるといった感情も理論化させていました)組み合わせれば完璧な社会を理論的に実現できると考えたのです。だから、彼が「空想的」と形容されるのは結構な誤解を含む表現です。……もうこの辺でお腹いっぱいでしょうか?

 

次回からちゃんと読んでいこうね!(読んでいくにしても内容が内容過ぎて多分すぐパンクしそう)

 

 

世界の名著 42 オウエン (中公バックス)

世界の名著 42 オウエン (中公バックス)

 

 

増補新版 愛の新世界

増補新版 愛の新世界

 

 

まえおき

しがない物書きです。これから不定期で色々書いていく予定です。

活動報告などもここで行うつもりです。

 

[略歴]
1992年生まれ。
中・高校時代に文学にのめり込む。好きな作家はカフカだった。
そのかたわらで、ポケモンの絵や小説の同人活動をおこなう(黒歴史)。
2011年地方公立大学に入学。色々あって現代思想にハマる。
専攻は人間科学。社会学言語哲学等を学ぶ。
2014年より活字系の方の同人活動を始める。
2015年地方国立大学修士課程進学。現代思想を中心に研究を行う。
2017年同大学博士課程進学。

 [執筆したもの一覧]
【2014年】
・「ケモリョナについての考察」(『日本堕落学会研究年報vol.1』PP.18-23寄稿)
・「メディア・ネトスマ・”いびつさ”―ぼくなりの『64スマブラ』論―」(『普通な人 第四号』PP.18-24寄稿)
【2015年】
・「巻頭言」(『日本堕落学会研究年報vol.2』P.1)
・「堕落学大全(1)」(『日本堕落学会研究年報vol.2』PP.34-47寄稿)


また、『64スマブラ』論は、以下の記事で取り上げられました。
「しぶさわレーニン○氏が語る、Redと丈助の功績」
http://ssbonline.html.xdomain.jp/column/075.html

[関心分野]
最近はもっぱらMLPやfurry fandam文化に関心。哲学とか社会思想とかも好き。
ケモノ系の小説やケモノカルチャーの考察等の依頼があれば
Twitter→(@shibuleni)
Mail→shibusawaleninmaru☆gmail.comまで。